足利義晴 (ASHIKAGA Yoshiharu)
足利 義晴(あしかが よしはる)は、室町幕府の第12代征夷大将軍(将軍在位:大永元年(1521年) - 天文15年(1546年))。
第11代将軍・足利義澄の長男、母は日野永俊の娘で日野富子の姪。
弟に足利義維がいる。
将軍就任
義晴の父・義澄は大内義興によって第10代将軍・足利義稙が擁立されて上洛してきた時、近江の六角高頼を頼って落ち延びていたが、その最中の永正8年(1511年)3月5日、義澄の長男として近江朽木で生まれた。
しかし、父は義晴が誕生した年の8月14日に朽木で死去している。
このため、永正11年(1514年)、義晴は播磨国に下向し、赤松義村の庇護を受けて養育された。
大永元年(1521年)、父と対立して将軍職に再任していた足利義稙が、管領の細川高国と対立して京都から追放されたため、高国に擁立されて第12代将軍に就任した。
京都と近江の往復
大永6年(1526年)、高国が家臣の香西元盛を殺害して細川氏で内紛が起こると、高国と対立していた細川晴元は、三好元長の援助を受けて義晴の弟・足利義維を擁立して高国と戦う。
さらに元盛を殺したことで波多野稙通や柳本賢治らも挙兵した。
大永7年(1527年)に桂川の戦いで細川高国が破れると、実権を掌握した阿波国の国人・三好元長や細川晴元らによって京を追われた。
享禄元年(1528年)には朽木稙綱 (戦国武将)を頼って近江国(現滋賀県)に落ち延び、元長らが擁立した堺公方・足利義維と対立した。
享禄4年(1531年)、高国は天王寺の戦いに敗れて自害する。
戦後、今度は細川晴元と三好元長が対立。
そして、天文元年(1532年)に元長が細川晴元によって討たれた後、天文3年(1534年)には六角定頼・六角義賢父子の後援を得て晴元と和解し、帰京した。
しかし、その後も晴元と対立して敗れたのち、和解して帰京するといった行動を繰り返しており、天文10年(1541年)には近江坂本に逃れ、天文11年(1542年)には京都へ帰還。
天文12年(1543年)には近江に再び逃れるなどしている。
将軍職譲渡と最期
天文15年(1546年)、義晴は晴元と対立して敗れ(江口の戦い)、近江坂本に避難したが、このときに嫡男・足利義輝に将軍職を譲り、以後は幼少の義輝の後見人となった。
その後、晴元と和睦して義輝と共に京都に戻るが、天文18年(1549年)には晴元と晴元の重臣・三好長慶が対立。
晴元は敗れ、義晴は義輝と共に近江朽木谷に逃れた。
天文19年(1550年)5月4日、近江穴太(現在の滋賀県大津市穴太 (大津市))にて死去。
墓所
義晴地蔵寺(現在の大阪府交野市)
しかし、「近江國滋賀郡誌」(明治14年(1881年))には、「頼珍逆修」と刻まれた彼の墓が穴太に現存すると記されている。
官職位階履歴
※日付=旧暦
1521年(大永元年)7月28日、従五位下に叙す。
11月24日、元服し、義晴と名乗る。
11月25日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。
併せて征夷大将軍宣下。
1522年(大永2年)2月17日、従四位下に昇叙し、参議に補任。
左近衛中将を兼任。
1530年(享禄3年)1月20日、従三位に昇叙し、権大納言に転任。
1546年(天文 (元号)15年)12月20日、右近衛大将を兼任。
同日、征夷大将軍を辞職。
1550年(天文19年)4月4日、薨去。
5月7日、贈従一位、左大臣。
義晴の偏諱を受けた人物
北畠晴具
近衛前久(晴嗣)
二条晴良
尼子晴久
伊達晴宗
武田信玄(晴信)
長尾晴景
南部晴政
細川晴元