近藤周助 (KONDO Shusuke)

近藤 周助(こんどう しゅうすけ、寛政4年(1792年) - 慶応3年10月28日 (旧暦)(1867年11月23日))は、天然理心流剣術3代目宗家。
新選組局長近藤勇の養父。
旧姓は嶋崎。
幼名は関五郎・周平。
後、周斎。
諱は邦武。
妻は近藤ふで。

人物

武州多摩郡小山村の名主嶋崎休右衛門の5男として生まれた。
文化 (元号)8年(1811年)、20歳で近藤三助(天然理心流剣術2代目)の弟子となった。
天保元年(1830年)に流派を継いで、近藤の姓を名乗る。
なお、近藤周助は三助より剣術の免許のみを得ており、また近藤姓を名乗った天保元年には既に近藤三助の死後11年が経過していた。
三助には何人もの高弟がおり、天然理心流の三術(剣術、柔術、棒術)の免許を得た弟子も何人か存在する。
そのため、周助が近藤姓を名乗った理由は謎とされている。

天保10年(1839年)、江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町25番地)に移転、天然理心流剣術道場試衛館を開設。
嘉永2年(1849年)、宮川勝五郎(後の近藤勇)を養子に迎え、嶋崎(のちに近藤)の姓を与える。
文久元年(1861年)代を勇に譲り、隠居し、名を周斎と改める。

文久3年(1863年)、近藤勇らが浪士組として京都へ出立した後、留守中の試衛館について、復帰しようとしたが、この年に中風を患い病床に伏した。
そのため、佐藤彦五郎を介して近藤に帰府を即している。

慶応3年(1867年)、近藤はじめ新選組全員が幕臣取り立てとなったその年の10月、移転したばかりの牛込廿騎組屋敷の寓居にて病死した。
墓は港区金地院にある。

[English Translation]