酒井定隆 (SAKAI Sadataka)
酒井 定隆(さかい さだたか、永享7年(1435年) - 大永2年4月24日 (旧暦)(1522年5月19日))は、室町時代後期から戦国時代 (日本)初期にかけての武将で上総酒井氏の祖とされる人物。
元は美濃国の住人であったといわれている。
美濃出身の彼がなぜ上総国に移ったのかについては諸説あるが、一般的には若い頃は京都にて室町幕府の幕臣であったとされている。
後に同じ美濃の出である東常縁が千葉康胤を討伐するために上総の隣国である下総国に向かった際にこれに同行したと考えられている。
だが、康胤の滅亡後、古河公方足利成氏の介入によってその息子が千葉氏の当主となる。
討伐は事実上の失敗に終わった上、応仁の乱によって幕府の権威は失墜する。
この様子を見た定隆は幕府の将来に見切りを付けて、常縁の帰国には同行せずに成氏の客将となったといわれている。
後に成氏の命によって上杉氏の勢力の強い上総北部の平定を命じられて、長享2年(1488年)、上総土気城に入る。
ここを根拠に勢力を拡大し、続いて東金城を占領して勢力を築いた。
熱心な日蓮宗(顕本法華宗)の信者であり、上総北部の平定後数年で領内のほとんどの寺院を日蓮宗へと改宗させたと伝えられている。
やがて、彼の子孫は東金系と土気系に分立して、豊臣秀吉に滅ぼされるまで上総北部を支配して繁栄していく事になる。