酒井忠次 (SAKAI Tadatsugu)
酒井 忠次(さかい ただつぐ)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての三河の武将。
徳川氏の家臣、酒井氏左衛門尉酒井家初代当主。
酒井氏は、石川氏と並ぶ徳川最古参の宿老。
出生
大永7年(1527年)、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣の酒井忠親の子として三河井田城内で生まれる。
忠次は、はじめ徳川家康の父・松平広忠に仕え、酒井小五郎のち左衛門尉と称した。
後に家康の祖父・松平清康と夫人・華陽院の間の娘で、広忠の異母妹にあたる碓井姫を正室とした。
碓井姫の母・於富は元々、水野忠政の夫人で家康の母・於大の方の実母であったから、忠次は家康にとっては父母双方の妹の夫、義理の叔父ということになる。
ただし、碓井姫の入嫁は桶狭間の戦い以降、前夫・長沢松平家松平政忠を失い、未亡人となってからであり、忠次も30歳をゆうに超えていた。
忠次は、広忠の没後、幼い家康に仕えて駿府での人質生活に従っていたという。
そのせいで婚期が遅れたものと考えられる。
この夫人との間に酒井家次や本多康俊などの子に恵まれている。
前半生
徳川家康が今川義元への人質として駿府に赴くとき、家康に従う家臣の中では最高齢者として同行した。
永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いの後、今川氏から自立した家康より、家老として取り立てられた。
永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、酒井氏の多くが一向一揆に与したのに対し、忠次は家康にあくまでも従った。
永禄7年(1564年)には、三河国から今川氏を締め出す総仕上げ・吉田城 (三河国)(愛知県豊橋市)攻めで戦功を立て、そのまま、吉田城主に取り立てられた。
以後、忠次は「東三河の旗頭」として、三河東部の諸松平家・国人を統御する役割を与えられる。
家康の主だった合戦である元亀元年(1570年)の姉川の戦い、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い、天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの諸戦役に参加し、戦功を立てた。
特に、三方ヶ原の戦いに際して浜松城の太鼓を打ち鳴らし敗戦の味方を鼓舞した逸話、長篠の戦いで鳶が巣山砦の奇襲を成功させて織田信長の賞賛を受けた逸話が有名である。
後半生
家康の厚い信任を受けていた忠次ではあったが、天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で織田信長からの詰問を受けたとき、大久保忠世とともに弁解の使者に立てられて安土城に赴いたものの、信康を十分に弁護せず信康切腹の命令を防げなかった(ただし、信康切腹事件が信長の命令によるという件は、異説も存在する)。
家康が豊臣氏の傘下に入ったのちも、豊臣秀吉から家康第一の重臣として遇され、天正14年(1586年)には家中では最高位の従四位下・左衛門督に叙位・任官された。
天正16年(1588年)、長男の酒井家次に家督を譲って隠居する。
慶長元年(1596年)10月28日、京都で死去した。
享年70。
子孫は代々譜代の重鎮として重きをなし、嫡流は出羽庄内藩14万石(幕末期に17万石に加増)という譜代屈指の大身となった。
人物・逸話
酒井忠次が愛用した武器は槍で、名前を「甕通槍」という。
甕もろとも突き抜けて敵を倒した、という逸話からこの名前がきている。
海老すくいという踊りが得意であり、重臣であるにもかかわらず諸将の前で踊りを見せ、大いに盛り上げたという。
後に徳川四天王・徳川十六神将の筆頭に数えられ、家康の功臣として顕彰された。
特に徳川四天王の中では、筆頭とされている。
天正18年(1590年)に家康が関東地方に移封されたとき、嫡男の家次に宛がわれた所領規模に関して抗議している。
それまで、忠次が積み上げてきた功労も考慮されず、わずか3万石しか与えられなかった。
10万石と厚遇された本多忠勝、榊原康政、井伊直政(直政のみ12万石)たち他の四天王メンバーとの大きな格差に不服を申し立てたのである。
ところが家康からは「お前も我が子が可愛いか」と手厳しく返され、信康事件の不手際を言外に難詰された話がよく知られている(しかし、上述の通り信康切腹事件に異説が存在する事から、このエピソードも創作であるという説がある)。
そんな話が示す様に、晩年は不遇であったとも言われる。
忠次が晩年に不遇だった理由は、本多正信ら若い人材の台頭と、豊臣秀吉から重用されたためともされている。
秀吉は忠次の力量を高く評価し、他家の家臣であるにも関わらずに天正14年(1586年)の叙位任官に尽力し、さらに隠居の際にも京都桜井に屋敷を与え、在京料として1000石を与えている。