釧雲泉 (KUSHIRO Unzen)

釧 雲泉(くしろ うんぜん、宝暦9年(1759年) - 文化 (元号)8年11月16日 (旧暦)(1811年12月31日))は、江戸時代後期の文人画である。
旅に生き、日本酒をこよなく愛した孤高の画聖として知られる。

号 (称号)の雲泉は雲仙岳に因んだ。
名前を就(じゅ)、字を仲孚(ちゅうふ)、通称 文平、別号に、魯堂(ろどう)、岱岳(たいがく)、六石(ろくせき)、磊落居士(らいらいこじ)などがある。

略歴

宝暦9年 島原藩士の子として肥前国島原(長崎県千々石町)の野田名寺の付近に生まれる。

幼少より絵を好み、いつも神社の大きな石(雲泉の手習い石)に泥を塗って竹箆で絵を描いては衣服を汚して帰ったという逸話が残っている。

10歳の頃、雲仙一乗院の小僧となるが、ここでも暇さえあれば絵を描いていたという。

その後、父に同行し長崎に遊学し、清について学問と南画の画法を学んだ。
中国語(華音)にも通じた。
このときの師は明らかではないが以来、董北苑や倪雲林・王麓台に私淑するようになる。
また来日した画家 張秋谷にも影響される。

父が亡くなると、ひとり万里の旅に向かう。
山陽道から紀伊国、淡路国、四国の諸国を巡り歩いた。

譛岐国で長町竹石と知りあい交友を深める。

一旦江戸に居を構える。

寛政3年3月(1791年、32歳)、十時梅厓の紹介で伊勢国長島町 (三重県)に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねる。
その後、また江戸に戻る。

同年、江戸で親交のあった備中国庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の紹介を得て、蠖斎の実兄である備中の庭瀬藩家老森岡延璋のもとに身を寄せる。

寛政3年から約3年間は倉敷を中心に旺盛な制作活動を行う。
備中長尾の小野泉蔵と交流をもった。
また、脱藩前の浦上玉堂との接触があったかと思われる。

寛政4年(1792年、33歳)頃から、備州と京都 大坂をたびたび往来している。
同年6月には、再び蒹葭堂を訪ねている。

寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。

寛政10年(1798年、39歳)、蒹葭堂を訪ねる。

寛政12年(1800年、41歳)、備州を去り大坂に住んだ。

享和元年(1801年、42歳)、蒹葭堂を訪ねる。
その後、京都に住む。

享和3年(1803年、44歳)、江戸湯島天神の裏門付近に居住。
多くの文人墨客と交わる。

文化2年4月(1805年、46歳)、大窪詩仏とともに信越に赴く。
高崎市から安中市を抜け碓氷峠を越えて信濃国入りし、信濃川を下って越後国の柏崎市に至る。
その途次各地で画の依頼を受けて制作をしている。
詩仏は引き返したが、雲泉は旅を続け三条市で秋を過ごした。
その後一旦、江戸に帰る。

妻子を連れて越後三条に移住し、南画の普及に尽くす。
この間越後の各地を遍歴し、門弟を育てる。

文化8年(1811年、52歳)5月には、亀田鵬斎とともに中条町の岡田家、吉田町 (新潟県)の酒井家に逗留し画を描いている。

同年、越後出雲崎町に遊ぶ。
浄邦寺住職 菅泰峨は大いに歓迎して雲泉に師事する。
しかし、蕎麦屋 けんどん屋にて酒を飲むうち急死する。
享年53。

泰峨により浄邦寺に埋葬される。
海野蠖斎の依頼を受けて亀田鵬斎が碑銘し「雲泉山人墓銘」として刻されている。

人物

雲泉は旅と孤独を愛し、超俗の画人として生涯を送った。

几帳面である反面、はなはだ気難しく、俗物を嫌い気に入らない人物とは口も利かず、筆や杯を投げて帰らせることもたびたびあった。
また冥利のためには描かなかったという。

酒を好み、煎茶道を嗜んだ。
釣りが好きで旅の途中いつも釣り竿を持ち歩いていた。

異常なほど潔癖症で料理や洗濯は自ら行わないと気が済まなかったと伝えられる。

作風・評価

雲泉は中国南宗画を志向し続けた。
山水画に名品が多く、比較的若描きのものに評価が高い。
晩年の作は妙な重苦しさがあると評される。

中国の画家 董源や倪雲林、張秋谷らの影響がみられ、気韻生動、筆墨淡雅で、超俗の趣を持つ。

「居民に雲仙あるを説けども、邑に雲泉あるを知らず」と雲泉を敬慕した田能村竹田はその著『屠赤瑣瑣録』で嘆いている。

金井烏洲『無声詩話』や森島長志『槃礴脞話』の「雲泉画譚」に雲泉の作が高く評価されている。

慶応2年(1866年)刊の『南宗書画品価録』には池大雅に次ぐ一点3両の高額で売買されていたことが記されている。

代表作
「碧梧清暑図」(1793年)菅茶山の賛あり
「秋江高閣図」(1799年)(款記)
「渓山清夏図」
「秋江泛舟図」
「秋江独釣図」 東京国立博物館蔵
「山水図六曲屏風」新潟県指定文化財

[English Translation]