鎌田政清 (KAMATA Masakiyo)

鎌田 政清(かまた まさきよ、保安 (元号)4年(1123年) - 永暦元年1月3日(1160年2月11日))は平安時代末期の武将。
藤原秀郷流首藤氏の一族で、相模国の住人鎌田通清の子。
名は正清、正家、政家とも。
通称鎌田次郎、左兵衛尉。

源義朝の第一の郎党。
政清の母が義朝の乳母だったことから乳兄弟として最も信頼された。

保元元年(1156年)7月の保元の乱で義朝に従って従軍し、源為朝に挑むがとても敵わぬと見て退いている。
乱の後、敵方について囚われの身となっていた義朝の父・源為義を涙ながらに斬るという務めを果たしている。

平治元年(1159年)12月の平治の乱では、内裏占拠後の藤原信頼主導の除目で左兵衛尉に任じられる。
待賢門の戦いでは義朝の長男源義平とともに平清盛の長男平重盛と戦い活躍。
六条河原の戦いで源氏が敗れ、義朝が討死しようとするのを引き止めて共に東国を目指して落ちた。
京を落ちる際に、政清が預かっていた義朝の姫を(敵に捕らえられるよりは)殺すよう命じられて引きかえし、姫を涙ながらに刺し殺した。

途中、落ち武者狩りの苦難に遭いながら義朝主従は政清の舅である尾張国野間内海荘の領主長田忠致の館にたどり着く。
だが忠致の裏切りにあい義朝は風呂場で殺害され、政清は酒を飲まされて騙し討ちに遭い、忠致の子長田景致の手にかかって殺された(『平治物語』)。
享年38。
『愚管抄』によると、罠を察知した義朝は政清に自らの殺害を命じたという。

文治元年(1185年)9月3日、政清の首は義朝の遺児・源頼朝によって義朝の遺骨と共に鎌倉の勝長寿院に葬られた。
建久年(1194年)10月25日、政清の娘が勝長寿院で父政清と義朝の追善供養を行っている。
政清に男子が無かった事から、頼朝はこの娘に尾張国篠木庄、丹波国名部庄の地頭職を与えている(『吾妻鏡』)。

政清夫妻の墓は、主君義朝と同じ愛知県美浜町 (愛知県)の野間大坊の境内に現存する。

[English Translation]