長井泰秀 (NAGAI Yasuhide)
長井 泰秀(ながい やすひで、1212年(建暦2年) - 1254年1月11日(建長5年12月21日 (旧暦)))は鎌倉時代の人物。
大江泰秀とも呼ばれる。
大江広元の孫。
父は大江広元の次男・長井広時。
『吾妻鏡』1232年(貞永元年)12月5日条に、大江広元の頃の「寿永・元暦以来京都より到来する重書並びに聞書、人々の款状、洛中及び南都・北嶺以下、武家より沙汰し来たる事の記録、文治以後の領家・地頭所務條々の式目、平氏合戦の時東士勲功の次第・注文等の文書」が分散してしまった為、北条泰時がこれを集めさせ、目録とともに長井泰秀に渡したとある。
承久の変の後であり、広元の長男・大江親広は既に幕府の要職から解任されているが、1247年(宝治元年)の宝治合戦の前であり、四男・毛利季光はその翌年に、五男・海東忠成もその後評定衆となる。
このとき長井泰秀は21歳で、まだ評定衆に上がるのは9年も先だが、記事の通りだとしたらこの長井泰秀が大江広元の嫡流と見なされていたことになる。
『吾妻鏡』の同日条を何処まで信用して良いのかは不明ながら、「関東評定伝」によると、18歳で既に左衛門尉となっており、同年更に従五位下に叙爵、23歳で従五位上、26歳で正五位下左衛門大尉、27歳で甲斐守という官職の昇進の早さは確かに高い家格を認められていたということになる。
そして『吾妻鏡』1242年(仁治3年)6月28日条によれば、30歳で評定衆となり、そして同1253年(建長5年)12月21日条には単独で「前甲斐守正五位下大江朝臣泰秀卒す(年四十二)」とある。
子に長井時秀、孫が長井宗秀であり、その宗秀が『吾妻鏡』の編纂者のひとりではないかと推測されている。