長尾景仲 (NAGAO Kagenaka)
長尾 景仲(ながお かげなか、嘉慶_(日本)2年/元中5年(1388年)- 寛正4年8月26日_(旧暦)(1463年10月8日))は、室町時代中期の関東管領山内上杉家の家宰。
上野国・武蔵国守護代。
上野国群馬郡白井城(現在の群馬県渋川市(旧子持村))城主。
長尾氏の長尾房景次男で、母は長尾氏の長尾清景の娘。
母の兄である長尾景守の養子となって白井長尾氏の家督を継いだ。
受領名は衛門府。
法号を昌賢(しょうけん)と号する。
子に長尾景信、長尾忠景、太田資清正室がいる。
孫には長尾景春(嫡孫)・太田道灌(外孫)がいる。
生涯
14歳であった応永8年(1401年)、養父の死によって上杉氏の重臣である白井長尾氏を継ぐ。
当時の家宰であった長尾氏の長尾忠政とともに上杉憲定を補佐し、以後5代の当主に仕えることとなる。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では、由比ヶ浜で上杉禅秀の軍を破って主君である関東管領上杉憲基と鎌倉公方足利持氏を鎌倉へと復帰させた。
永享10年(1438年)、持氏が憲基の後継である上杉憲実を討伐しようとして永享の乱を起こすと、長尾忠政は憲実を上野平井城に迎え入れて持氏討伐の兵を挙げる。
この戦いで景仲も副将格として出陣して、忠政が持氏を捕らえた際にも功績があった。
続く結城合戦でも功績を挙げた。
嘉吉3年(1443年)頃に忠政が没すると、子供達を連れて出奔した憲実に代わって当主の仕事を代行していた上杉清方(憲実実弟・越後国守護)の要請で山内上杉家の家宰に就任した。
ところが、文安3年(1446年)に清方は急死(自殺とも)し、憲実は隠遁生活からの復帰を承諾しなかったために関東管領は空位となった。
先の永享の乱で鎌倉公方も廃絶していたため、関東地方の政治は停滞した。
そこで景仲は扇谷上杉家の家宰で娘婿の太田資清と相談して憲実の長男・竜忠(上杉憲忠)を連れ出して関東管領を継承させた。
ところが、足利持氏の遺児・永寿王丸(足利成氏)を新しい鎌倉公方に擁立する動きが清方の後を継いだ越後守護・上杉房定や関東諸将の間で起き、室町幕府もこれを容認した。
文安4年(1447年)、永寿王丸と上杉憲忠は鎌倉に入って憲忠が関東管領に任命された。
永寿王丸は2年後の宝徳元年(1449年)に元服して従五位下左馬頭に任命された。
また永寿王丸は征夷大将軍足利義成(後の足利義政)の一字を拝領して「足利成氏」と名乗って正式に第5代鎌倉公方に就任した。
だが、成氏が永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用するようになると、上杉氏やその家臣団の反発も高まっていった。
宝徳2年(1450年)、相模国鎌倉郡長尾郷(現在の横浜市栄区長尾台)が足利成氏の命令を奉じた簗田持助 (室町時代)に押領される事件が起きた。
この地はその名の通り長尾氏発祥の地であり、そこにある御霊神社_(横浜市栄区)は長尾氏一門の祖先祭祀の中心であった。
この事態に景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨して成氏に激しく抗議したが、成氏側は返還には応じようとしなかった。
同年4月20日_(旧暦)、長尾景仲・太田資清が鎌倉に兵500騎を入れてクーデターを起こそうとした。
だが、成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜のうちに鎌倉を脱出して江ノ島に立て籠もった。
翌日には由比ヶ浜で両軍は交戦した。
長尾・太田軍は惨敗した上に、事情を知らない主君・上杉憲忠までが成氏救出のために小幡氏らを出陣させたことが明らかになった。
そのため、長尾景仲と太田資清は資清の主君である前扇谷上杉家当主上杉持朝の糟谷館(現在の神奈川県伊勢原市)に逃げ込んだ。
上杉憲忠は事件に全く関与していなかったが、襲撃したのが長尾・太田の兵であると知って謹慎してしまった(江ノ島合戦)。
その後、成氏は鎌倉に戻り、上杉憲忠も10月に入って職務に復帰した。
また憲忠の懇願によって長尾景仲らの罪も赦免された。
ところが、その後も成氏側・憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発した。
このため、憲忠・持朝は成氏打倒を計画する。
だが、享徳3年12月27日 (旧暦)(1455年1月15日)、景仲が長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出ていた夜に、憲忠は成氏の御所において、成氏軍に討たれてしまう。
憲忠暗殺の報せを聞いた景仲は鎌倉に戻ると、直ちに管領屋敷に火を放つとともに憲忠正室(上杉持朝の娘)ら生き残った人々を持朝の糟谷館に避難させた。
糟谷館に着いた景仲は、持朝ら上杉一族の要人と協議して京都にいる憲忠の弟・上杉房顕を次の関東管領に迎え入れるとともに成氏を討伐する事を決めた。
更に景仲はそのまま領国の上野に入って兵を集めるとともに、使者を越後守護の上杉房定に援軍を求めた。
更に嫡男・長尾景信を直接京都に派遣して事の次第を幕府に報告するとともに、房顕を迎える事にした。
康正元年(1456年)に入ると、成氏は上杉氏の本国である上野を攻略するために鎌倉を出発して武蔵国府中の高安寺に入った。
この報せを聞いた長尾景仲は直ちに上野・武蔵の兵を率いて府中に向けて出撃し、上杉一族もこれに合流すべく出陣した。
だが、1月21日 (旧暦)、武蔵国分倍河原の戦い_(室町時代)にて惨敗し、扇谷上杉家当主上杉顕房ら名だたる武将を多く失った。
難を逃れた長尾景仲だけが、残った軍をまとめて辛うじて常陸国小栗城(現在の茨城県筑西市)まで落ち延びる事が出来た。
だが、閏4月には小栗城も成氏軍に攻め落として景仲は上野国に逃れた。
だが、成氏も上杉氏救援に駆けつけた今川範忠によって鎌倉を追われて下総国古河城を根拠として「古河公方」を名乗った(享徳の乱)。
その後も、戦いは関東地方各地を二分して展開した。
長禄3年(1459年)の上野・羽継原の戦いでは、成氏軍を打ち破るなど、上杉軍の中核として活躍して「東国不双の案者」(『鎌倉大草紙』)などと呼ばれた。
寛正4年(1463年)、鎌倉にて76歳で没。
関東管領上杉氏と白井長尾氏の発展のために力を尽くした生涯であった。