長束正家 (NATSUKA Masaie)
長束 正家(なつか まさいえ/ながつか まさいえ)は、安土桃山時代の大名であり、豊臣政権の五奉行の一人である。
父は長束盛里といわれるが不明。
弟に長束直吉(伊賀守)がいる。
近江国水口岡山城主。
一般に長束氏の本姓は大蔵氏とされるが、おそらく官称の大蔵省を氏と誤認したものだろう。
生涯
永禄5年(1562年)、長束盛里の長男として近江国栗太郡長束村(尾張国説もある)で生まれる。
初め織田氏の家臣・丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。
高い算術能力を買われて、財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理、太閤検地の実施に当たる。
九州征伐・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍した。
文禄4年(1595年)に近江水口岡山城5万石を拝領し(のち加増されて12万石)、五奉行の末席に名を連ねる。
秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加、水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀るも失敗した。
慶長5年(1600年)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。
初め伊勢の津城を攻略し、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣したが、吉川広家の妨害により、毛利秀元や長宗我部盛親とともに本戦に参加できず、西軍壊滅すると敗走した。
水口城を目前に、追手の池田輝政・池田長吉に包囲され、弟長束直吉と共に自刃した。
享年39という。
子孫
正室は本多忠勝の一族の栄子。
栄子との間には関ヶ原後に一男が生まれ、のちに水口大徳寺の三世門跡となったという。
このあたり、石田三成の子孫とも似通っており興味深い。
子に長束半右衛門、長束長吉、長束祐順らがいる。
子の半右衛門は細川幽斎の孫の徳雲院を正室としていた縁で細川忠興に召抱えられ、肥後国の地で存続する。
子孫は田中氏を名乗った。
弟直吉の子孫は浅野氏(広島藩か赤穂藩などの分家かは不明)に仕えたという。