阿倍内麻呂 (ABE no Uchimaro)
阿倍 内麻呂(あべ の うちまろ 生年不詳 - 大化5年3月17日_(旧暦)(649年5月3日))は、飛鳥時代の政治家。
阿倍鳥子の子。
大化の改新で左大臣に任じられた。
日本書紀で阿倍麻呂、阿倍倉梯麻呂と記される人物と同一と考えられる。
日本の金(こん)氏一族は内麻呂の末裔とされる。
推古天皇32年(624年)大臣の蘇我馬子が推古天皇に葛城県の譲渡を要求し、内麻呂と阿曇連が遣され天皇へ奏上している。
推古天皇はこの要求を拒否した。
推古天皇36年(628年)推古天皇が崩御すると舒明天皇と山背大兄王が有力な皇位継承候補となった。
大臣の蘇我蝦夷は内麻呂と議して自邸で群臣と皇位継承について諮った。
群臣の間で意見が分かれたが内麻呂は田村皇子こそが推古天皇の意中であったと主張した。
蝦夷の望みも田村皇子であり、結局、田村皇子が即位した(舒明天皇)。
皇極天皇4年・大化元年(645年)天智天皇と藤原鎌足により蘇我入鹿が暗殺され、父の蝦夷は自殺して蘇我氏は滅亡した(乙巳の変)。
皇極天皇は譲位し、孝徳天皇が即位して新政権が発足した。
左大臣には内麻呂が右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられ、各々金策を賜っている。
内麻呂は豪族を代表する重鎮として、また孝徳天皇の妃として娘の小足媛を入れ有間皇子を生んでいることから新政権の中枢に入れられたと考えられる。
彼のもう一人の娘橘娘は天智天皇の妃になり明日香皇女・新田部皇女を生んでいる。
大化4年(648年)、内麻呂は四天王寺で仏像4体を迎えて法要をとり行った。
大化5年(649年)内麻呂は死去した。
孝徳天皇が朱雀門まで来て哀悼し、皇極前天皇・皇太子をはじめ群臣が哀哭した。
その直後に、右大臣の石川麻呂は謀反の密告があり、自殺に追い込まれた。