阿閉貞征 (ATSUJI Sadayuki)
阿閉 貞征(あつじ さだゆき、享禄元年(1528年) - 天正10年6月18日 (旧暦)(1582年7月7日))は戦国時代 (日本)の武将で、浅井氏、織田氏の家臣。
近江国山本山城主。
貞秀とも称す。
淡路守の受領名を自称。
藤堂高虎や渡辺了も一時期阿閉家臣として仕えていた。
代々北近江、伊香郡の国人であったが、浅井氏が京極氏に代わって勢力を拡大すると、浅井氏に従うようになった。
貞征は浅井家中では重臣で、北国街道や奥琵琶湖を見渡せる要害山本山城を任されていた。
姉川の戦いには1,000騎を率いて参陣。
磯野員昌、浅井政澄に続く3段目に布陣した。
姉川の戦い後も対織田戦に参陣し、山本山城が信長の攻撃を受けるもこれを撃退していた。
しかし1573年、信長に内応し山本山に織田勢を引き入れたため、小谷城は孤立し主家滅亡の遠因をつくる。
主家滅亡後は、子の阿閉貞大とともに織田家に降りすぐに朝倉攻めの先手を務めている。
江北は、豊臣秀吉に一職支配権が与えられ阿閉は、山本山城と伊香郡内の本領を安堵されて、秀吉の与力となる。
しかし、次第に秀吉の圧迫が募り竹生島にある扶持を秀吉に取られた為、貞大が信長側近の菅屋長頼に訴えている。
天正5年より秀吉は、播磨に赴くが阿閉親子は、近江に駐まり信長の旗本となっている。
その後、越前の一向宗との戦い等に参陣。
越前国木ノ芽城の守備についていたが、本願寺勢力に攻め落とされてしまったという記録が残っている。
1582年、本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉の居城・長浜城 (近江国)を攻めた。
しかし、山崎の合戦で光秀が打ち破られると秀吉に追討され一族全て殺されてしまった。