高山友照 (TAKAYAMA Tomoteru)
高山 友照(たかやま ともてる、大永7年(1527年) - 文禄4年(1595年))は戦国時代 (日本)の武将。
飛騨守を自称。
最初期のキリシタン大名の一人として、息子の高山右近(重友)とともに知られる。
洗礼名はダリオ。
生涯
摂津国島下郡高山村(現在の大阪府豊能郡豊能町高山)の土豪の出自といわれ、大和国宇陀郡の沢城の城主として知られる。
武将として勇猛で、教養もあり、領民にも慕われ、誠実な「武士の鑑」として同時代人に知られた。
壮年期には、畿内の実権を握る三好長慶の重臣であった、松永久秀に仕えた。
彼のキリスト教との出会いはドラマティック的なものだった。
イエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラが堺市を訪問することを知った僧侶たちは領主松永久秀に宣教師の追放を依頼した。
久秀は問答無用で追放するのではなく、宣教師と仏教についての知識のあるもので議論させた上で、なにか不審な点があれば追放しようと考えた。
そこで清原枝賢に議論をさせることにし、仏教に造詣の深い高山友照と結城忠正(山城守)の二人を討論の審査役とした。
キリスト教徒側でこの討論をすべく奈良へやってきたのは琵琶法師出身のロレンソ了斎であった。
(ヴィレラは命の危険があるとして周囲の人間に引き止められた。)
ところが、ロレンソと清原が議論を続ける中で二人の審査役が、すっかりキリスト教の説く教えの合理性や奥深さに惚れ込んでしまった。
こうして高山友照はヴィレラを沢城に招いて家族とともに洗礼を受けるという意外な結末になった。
このとき、嫡子の彦五郎(後の右近)も洗礼を受けている。
その後、摂津の状況が大きく変化する。
1568年(永禄11)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛し、友照親子は高槻城主和田惟政の組下につけられた。
ところが惟政は池田氏との争いで討死(白井河原の戦い)、高槻城はまだ若年の惟政の子・和田惟長が引き継いだ。
これを好機と見た友照親子は1573年(元亀4)4月、惟長を追放し、自らが高槻城主となった。
この際、摂津の実権を握りつつあった荒木村重の重臣に、高山氏の親戚である中川清秀がいたこともあり、これらの承諾を得て、大きな混乱もなくこの追放劇は実現したと考えられる。
こうして摂津の北辺・高槻周辺は高山親子の所領となった。
友照が宣教師らの布教を保護したこともあり、彼の治世、高槻ではキリシタンが増加した。
1578年(天正6)に荒木村重が信長に対して叛旗を翻すと、組下であった高山親子も高槻城に拠って信長に対抗した。
この戦いの中で、信長に降伏すべきという一派と徹底抗戦を主張する派が対立。
結果として息子の高山右近が単身、城を出てしまう。
村重が逃亡すると、抗戦した友照は捕縛され、死刑になるところを息子右近らの助命嘆願によって越前国追放になった。
越前では柴田勝家から客将として扱われた。
信長死後は各地を転々としていたようであるが、1595年(文禄4)に京で熱心なキリシタンとしてその生涯を閉じた。