鳥居元忠 (TORII Mototada)

鳥居 元忠(とりい もとただ)は、安土桃山時代の徳川家康の家臣である。
三河国渡村(現在の愛知県岡崎市)出身。

生涯

父の鳥居忠吉は岡崎奉行などを務めた松平氏以来の老臣で、元忠も家康がまだ「松平竹千代」と呼ばれて今川氏の人質だった頃からの側近の一人である。
家康の三河統一後、旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。

元亀3年(1572年)、父の死により家督を相続する。
同年の三方ヶ原の戦いや諏訪原城合戦で足に傷を負い、以後は歩行に多少の障害を残す。

天正10年(1582年)、天正壬午の乱で家康の背後を襲おうとした北条勢の別働隊10,000を鳥居元忠ら2,000が撃退し北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、その後甲斐国郡内地方を家康より与えられ、谷村城の城主となる。
その後、天正13年(1585年)に上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では大久保忠世、平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け撃退される。

家康が豊臣秀吉に帰服して関東に移封されたとき、下総国矢作に4万石を与えられる(矢作藩)。

慶長5年(1600年)には秀吉死後の豊臣政権において、五大老となっていた家康は会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると、伏見城を預けられる。
家康らの出陣中に五奉行の石田三成らが家康に対して挙兵すると、伏見城は前哨戦の舞台となり、元忠は1800人の兵力で立て籠もる(伏見城の戦い)。
元忠は最初から玉砕を覚悟で戦い続け、鈴木重朝と一騎打ちの末に討ち死にした。
享年62。
その忠節は「三河武士の鑑」と称された。
このときの伏見城の床板は、「血天井」として京都市の養源院をはじめ、宝泉院、正伝寺、源光庵、宇治市の興聖寺 (宇治市)に今も伝えられている。

家康は忠実な部下の死を悲しみ、その功績もあって嫡男の鳥居忠政は後に山形藩24万石の大名に昇格している。

逸話

元忠は幼少の頃から徳川家康に仕えて幾度となく功績を挙げたが、感状をもらうことは無かった。
家康が感状を与えようとしたが、元忠は感状などは別の主君に仕えるときに役立つものであり、家康しか主君を考えていない自分には無用なものであると答えた。
絶対の忠臣であったと言われている。
また、秀吉からの官位推挙の話が度々あったものの、主君以外の人間から貰う言われはないと断ったという。

武田氏の滅亡後、重臣である馬場信房の娘の情報が家康に届き、元忠に捜索を命じる。
しかし元忠は娘は見つからないと報告し、捜索は打ち切られる。
しばらくして、馬場の娘が元忠の本妻になったという話を聞き、家康は高笑いで許した。

子のひとり鳥居忠勝(水戸藩士)の娘が赤穂藩の家老大石良欽に嫁いでいる。
その夫婦の孫が元禄赤穂事件において主君に忠死した大石良雄であった。

元忠の出生地は愛知県岡崎市渡町(元の矢作町)という所で鳥居氏発祥の地 として碑が建っている。
その碑を管理しているのが鳥居元忠の生家で、今では鳥居家の本家として受け継がれている。
鳥居元忠の関係の子孫の多くは関東を中心に東京、栃木、神奈川、千葉、岩手、群馬、茨城、長野等に散らばっている。
400年以上過ぎた今でも、元大名の鳥居家や本家を中心とした鳥居家一族の会(鳥居会)を作って時代の検証を続けている。

[English Translation]