中山道 (Nakasen-do Road)
中山道(なかせんどう)は、江戸時代の五街道の一つで、本州中部の内陸側を経由する路線である。
「中仙道」とも表記する。
概要
東海道に次ぐ主要街道であった。
江戸の日本橋 (東京都中央区)から草津宿まで。
草津宿で東海道に合流する。
江戸から草津までは129里あり、67箇所の宿場が置かれた。
現在の都府県では、東京都・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・滋賀県にあたる。
現在の相当国道
国道17号:東京特別区~高崎市
国道18号:高崎~軽井沢町
国道142号:佐久市~下諏訪町
国道20号:下諏訪~塩尻市
国道19号:塩尻~恵那市
国道21号:御嵩町~米原市
国道8号:米原~栗東市
国道1号:栗東~草津市
歴史
前史
律令制
律令時代には、畿内を中心とした地方区分であった。
そのため、東山道は畿内から東の内陸部に伸びる道路として整備された。
戦国時代 (日本)
戦国時代の東山道は、武田氏(甲斐国)や小笠原氏(信濃国)や金森氏(飛騨国)や織田氏(美濃国)などの地盤であった。
このため、武田氏や織田氏を中心とする軍勢などによって、東山道と東海道を結ぶ連絡線が整備された。
この連絡線は、現在の国道52号、国道151号・国道153号、国道22号などの源流となった。
1600年(慶長8年)、宇都宮市から関ヶ原の戦いへ向かう徳川秀忠の軍勢が中山道を通っている。
この際真田昌幸が守る上田城を攻略できず、足止めされ関ヶ原の戦いに遅参するという失態を起こした。
江戸時代
江戸時代に入り、江戸幕府は、1601年(慶長6年)から7年間で他の五街道とともに中山道を整備した。
それまでの街道を改良したものが多かったが、新しく作られた街道筋もあった(大井宿(岐阜県恵那市) - 御嶽宿(岐阜県可児郡御嵩町)間など)。
古くは山道や東山道とも称され、江戸時代には中山道や中仙道とも表記されたが、1716年(正徳6年)に、江戸幕府の通達により中山道に統一された。
関所は、上野国碓氷峠(群馬県安中市)、信濃国福島宿(長野県木曽郡木曽町)、信濃国贄川宿(長野県塩尻市)の三箇所に設置された。
明治時代以降
明治中期以降、鉄道網の発達により、東京と京都を結ぶ街道としての中山道は次第に衰退していった。
ただし、中山道のそれぞれの部分は、「東京と新潟を結ぶ街道(東京~高崎)」「尾張と木曾を結ぶ街道(名古屋~長野)」などとして、依然として重要な街道であり続けた。
中山道幹線
1869年(明治2年)、明治政府により東京市~京都市の両市を結ぶ鉄道建設計画が発表された。
明治政府は、東西を結び国家建設の中核となる鉄道建設を計画した。
しかし、その路線の選定では東海道ルートと中山道ルートの両案が並立し、長期間決定されなかった。
その間に、中山道沿線では私鉄の日本鉄道による建設が進んでいた。
1883年(明治16年)7月28日、上野駅~熊谷駅間などが開業。
翌1884年には上野~高崎駅間が開通した。
同年12月、政府は「中山道鉄道建設公債」を発行し、東西の幹線鉄道は中山道ルートで建設すると決定した。
これは、東海道ルートで建設した場合、既に海運が発達していたために競争となって運賃の高い鉄道は不利であり、逆に山沿いで建設すれば新たな地域開発も図れるという点から決定されたといわれている。
一説には、戦時における海からの攻撃に対する脆弱性を懸念する軍部の山縣有朋が1883年(明治16年)に「鉄道は山側に敷設すべき」と主張したことから、このようなルートが採用されたとするものもある。
実際には前述のような事情のため、山縣の主張以前に当時国有鉄道を管轄していた工部省鉄道局が、このルートの採用を決めていたと思われている。
更に、当時の日本の主力輸出産品であった生糸の主産地である群馬県や長野県を通ることで、産業振興に重要な役割を果たせるという期待もあった。
また、東西幹線の通過しない地域の振興も図るため、多くの支線(軽井沢駅~直江津駅、岐阜駅~武豊駅、米原駅~敦賀駅など)も設置することになっていた。
この決定に従い、日本国有鉄道の手で中山道幹線本線やその支線(資材運搬用)の建設が進んだ。
この時期の開業は以下の通りである。
1882年3月10日、支線部分:長浜駅-柳ヶ瀬間、洞道口(仮)(後の洞道西口)-金ヶ崎(現在の敦賀港駅)間(注:東西幹線ルート決定前の開業)
1884年4月16日、支線部分:柳ヶ瀬-洞道西口(仮)間
1884年5月25日、支線部分:大垣駅-長浜間(東海道線全通時に一部廃止)
1885年10月15日、本線部分:高崎-横川駅 (群馬県)間
1886年3月1日、支線部分:武豊駅-大府駅-熱田駅間
1886年4月25日、支線部分:熱田-大垣駅間(武豊-敦賀-金ヶ崎間開通)
1886年7月19日、明治政府は東西幹線ルートを東海道に変更すると決定。
実際に測量が開始され、一部では建設にも着手したが、碓氷峠などの山越えが予想以上に険しく、工事の長期化や費用増、開業後の輸送力制限などが避けられなくなった。
そこで、産業革命の進展や国際情勢の緊迫化などで東西幹線の早期完成や輸送力強化が求められるようになった。
また、このルートで通過しない大都市である名古屋の市長は市の衰退を憂慮し、国へ東海道ルートへの変更を求めて働きかけを行っていた。
そこで、一部を除けば比較的平坦で、当時の技術水準でも早期完成が可能な東海道ルートに変更し、1890年の帝国議会開設に間に合うように至急工事が行われることになった。
1889年7月1日、東海道本線新橋(後の汐留)~神戸駅 (兵庫県)間が全通。
中山道幹線として建設された部分では、本線の西側部分になる大垣~草津~京都間と、支線の大府~大垣間が東海道線として組み込まれた。
支線のうち、武豊~大府間は東海道線の支線となり、その後1909年に武豊線となった。
1890年11月25日、第一回帝国議会(第一議会)が召集された。
東海道線開通以後
東海道線の全通により、中山道はその任務を大きく変えることになった。
明治維新で成立した中央集権体制で、名古屋市が地方支配の拠点にされて以降、名古屋を中心とする放射状交通網が整備され、「内陸同士」「沿岸同士」の連帯が壊されてしまった。
加納宿(岐阜市加納)以西の中山道ルートには、太平洋沿岸に当たる三重県の鈴鹿山脈を越える本来の東海道に代わって、新たに東海道線が敷設された。
そして戦後には、岐阜以西の中山道ルートには、名神高速道路や東海道新幹線が敷設され、東西の幹線の表道となった。
岐阜駅以東の中山道ルートには、概ね高山本線・太多線・中央本線・信越本線・高崎線などが整備された。
しかし、いずれも東西の幹線という意味を持たず、太平洋側(関東地方、東海地方)・内陸側(甲信地方)・日本海側(北陸地方)の都市や村落を結ぶ、南北の連絡線や、東西の幹線の裏道というルートとなった。
中山道ルートの内、和田峠 (長野県)を越える部分に当たる岩村田宿~下諏訪宿間については、並行する鉄道が建設されなかった。
それ以降、東京~下諏訪町間の内陸ルートは、中山道ルート(高崎市経由)ではなく、甲州街道ルート(甲府市経由)が主流となっており、下諏訪以西が中山道ルートとなっている。
しかし、関東地方と近畿地方を結ぶ幹線を、東海道ルートではなく中山道ルートに建設しようという構想は、1950年代以後に国土開発幹線自動車道(国土縦貫自動車道)計画として再び現れた。
中央自動車道は, おおむね甲州街道と併走し、岐阜県東濃地方で中山道と併走する。
中山道と併走する名神高速道路を正式には含んでおり(名神高速道路の法定名称は「中央自動車道西宮線」)、東京と西宮市を結ぶ東西の幹線になっている。
また東京都と大阪市を結ぶ新幹線の建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画として構想されている。
東海道新幹線のバイパスとしての役割を担う中央新幹線も、同じく内陸部の甲州街道・中山道に併走する建設ルートが予定されている。
歴史遺産
明治以後の急速な経済発展や、第二次世界大戦時の空襲などによって、沿道が急速に変貌した東海道沿線と異なり、中山道沿線では、江戸時代以前の街道や宿場町が比較的良く保存されて来た。
高度経済成長期以後、これらを積極的に保存しようという運動が高まった。
特に、重要伝統的建造物群保存地区に選定された長野県の妻籠宿(1976年選定)と奈良井宿(1978年選定)が有名である。
他にも、かつての宿場町ではそれぞれ歴史資料館などを整備している。
また、奈良井宿と藪原宿の間にあり、日本海(信濃川水系)と太平洋(木曽川水系)の中央分水嶺でもある鳥居峠 (長野県)や、妻籠宿と馬籠宿の間にある馬籠峠では、自然遊歩道としての整備が進められている。
中山道は、約30の大名が参勤交代に利用したと言われている。
その中で最大の領地を持つ加賀藩は、江戸の上屋敷を中山道沿いの本郷 (文京区)に、下屋敷を板橋宿に置いた。
そのうち、江戸上屋敷の敷地は、明治以後に東京大学となった。
そのため、現在の東京大学の本郷キャンパスは国道17号に面している。
また、かつての中山道に向かう形で、金沢藩上屋敷の赤門が、重要文化財として保存展示されている。
中山道は、様々な文学作品の舞台ともなった。
馬籠出身の島崎藤村は、自らの故郷を舞台に歴史小説「夜明け前」を執筆した。
現在の馬籠宿には、「藤村記念館」などが建設されている。