東海道 (Tokaido)
東海道(とうかいどう、うみつみち)
五畿七道の一つで、本州太平洋側の中部を指す行政区分。
五畿七道の東海道を通る幹線道路。
律令制時代に整備されたもの。
江戸時代に整備されたもの。
五街道の一つ。
行政区画としての東海道
行政区分の東海道は、畿内から東に伸びる、本州太平洋側の中部を指した。
これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。
伊賀国(三重県の西部)
伊勢国(三重県の中部)
志摩国(三重県の東部と愛知県の伊良子岬付近)
尾張国(愛知県の西部)
三河国(愛知県の中部と東部)
遠江国(静岡県の概ね西部)
駿河国(静岡県の概ね中部及び富士山周辺)
伊豆国(伊豆半島及び伊豆諸島)
甲斐国(山梨県)
相模国(神奈川県)
武蔵国(東京都と埼玉県、神奈川県の一部。
初めは東山道)
安房国(千葉県の南部)
上総国(千葉県の中部)
下総国(東京都の隅田川東岸、千葉県の北部、茨城県の一部)
常陸国(茨城県)
律令時代
律令制の東海道は、東海道の諸国の国府を駅路で結ぶ物であった。
七道の一つで、五畿七道の中路である。
律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の物より広く、直線的に建設された。
中世に大半が廃れたため、正確な道筋については議論されているが、以下の箇所を除いては近世の東海道とおおむね同様の径路と考えられている。
平城京(奈良)から東に伊賀国府を経由して鈴鹿関に至る。
沼津から御殿場を経由して足柄峠を越え、関本に至る。
当時は「東海道」の本筋であった。
800年頃、富士山の噴火によって足柄が通行不能になって「箱根路」が拓かれると「東海道矢倉沢往還」と称されるようになった。
なお箱根路は急峻なため、足柄路が復興され、中世までは主要な街道筋であった。
相模国国府以東。
海を渡ってから房総半島を北上し、常陸国から菊多関を経由して陸奥国に入り、今の宮城県南部で東山道に合する。
相模国では、多摩川を渡る地点までは現在の矢倉沢往還(国道246号)の経路にあたる。
矢倉沢往還の旧道では、律令時代の東海道の道筋がそのまま現在でも用いられている箇所がある。
武蔵国と下総国の境の中川低地付近は古代には陸化が進んでおらず低湿地で通行に適さず、元来武蔵国が北隣の上野国の豪族の影響下にありその関係が密接であった(武蔵国造の乱を参照のこと)。
そのため、当初の東海道は相模国の三浦半島から海路で房総半島の上総国(安房国分立は718年)に渡るルートとなっており、武蔵国は東山道に属していた。
現・千葉県である安房国(房総半島先端)はともかくとして、上総国(房総半島中部)と下総国(房総半島根本部)の位置が「現代感覚から見て逆転している」のはこのためである。
武蔵国はその後、海路の不安定さや蝦夷討伐の際の輸送の効率性を重視する観点から、771年(宝亀2年)旧10月27日に東海道に移された(続日本紀)。
なお、「東海道」の呼称は上記の相模 - 上総のルートとともに、三河国から伊勢湾を経由して伊勢国に渡る別ルートという海上ルートを含んでいたために、「ヤマノミチ(東山道)」に対する「ウミノミチ」の意味で命名されたと考えられている。
海上ルートは延喜式にも記された。
東海道は地域としての東海道最後の国である常陸国の国府に達してからもさらに北上し、菊多関から陸奥国に入った。
今の福島県の海岸地方(浜通り)を通って、宮城県の岩沼市あたりで東山道に合流した。
陸奥は東山道に属するので、この東海道はそれに対する副線である。
それより北にも各地に東海道と呼ばれる道が断片的に存在し、それが古代の名残りだとすると、さらに北でも支線として存在した可能性が高い。
史料に山道に対する海道として現れるものは、多賀城の国府から海側の牡鹿郡・桃生郡へ向かう支線として設定されたと考えられる。
また現在の仙台市にある東海道(あずまかいどう)も、古代に連なる可能性がある。
中世
源頼朝が相模国鎌倉市に鎌倉幕府を樹立すると、東海道は京都と鎌倉を結ぶ幹線として機能するようになった。
海道記とあるように、この頃、海道といえば、東海道そのものを指していた。
江戸時代
江戸時代になり、事実上の首都が江戸に移ると、東海道は五街道の一つとされ、京都と江戸を結ぶ、日本の中で最も重要な街道となった。
日本橋 (東京都中央区)(江戸)から三条大橋(京都市)に至る。
宿駅は53箇所(→東海道五十三次)。
当初は、主に軍用道路として整備された。
途中に箱根町と新居町に関所を設けた。
京都から延長して大阪市に至る京街道(宿駅4箇所)も、東海道の一部とすることがある。
江戸方面から大坂へ向かう場合は、大津宿から京都には入らずに伏見区に入る大津街道が追分駅 (滋賀県)付近から分岐する。
東海道を扱った作品
歌川広重作「東海道五十三次」(浮世絵)
十返舎一九作「東海道中膝栗毛」
明治時代以後
明治政府は、幹線道路の呼称に番号付きの国道を用いるようになり、地方制度としての令制国も廃止した。
幹線道路としての実質的機能と位置は現在の国道15号及び国道1号に受け継がれた。
部分的に異なる経路を歩むが、東日本と西日本(関東地方と近畿地方)を結ぶ機能は律令時代から同じであり、現在においても東海道の径路は、日本に必要なものであることを示している。
現代において「東海道」と言うときには、江戸時代の東海道の道筋と、その頃の東海道に属した諸国の範囲を指す。
従って、東海道の東端は、律令時代では北茨城市、江戸時代以後は特別区(江戸)ということになる。
鉄道の「東海道」
なお、「東海道」の名をつけた東海道本線および東海道新幹線は、東京-熱田間と草津-京都間ではほぼ江戸時代の東海道に沿っているが、その間は中山道(加納宿-草津宿)と美濃路(宮宿-垂井宿)に沿ったルートとなっている。
現在「東海道」というと、しばしばこの両鉄道沿いのルートが江戸時代のそれであると誤解され、紹介されることもあるほどである。
後述する通り、本来の街道としての東海道は名古屋-亀山-草津という、現在の鉄道路線ならば関西本線と草津線のルートに近いものである。
これは東西両京を結ぶ鉄道線を敷設するに当たって、東海道と中山道のいずれに通すかを巡って明治初期に論争があり、その結果中山道経由に一時は決定してその一部に該当する路線が開業したものの、後に碓氷峠を越える区間など山岳地域での工事の長期化・費用増、開業後の輸送量制限を考慮して、やはり東海道の方が優れているということになり、急遽岐阜(加納)以東のルートが東海道経由に変更されたことに起因している。
計画変更が決まった時には、既に神戸駅 (兵庫県)から大阪駅・京都駅を経て大津駅に至る鉄道と、長浜駅から岐阜駅・名古屋駅を経て武豊駅までの鉄道が開業していた。
これと琵琶湖の鉄道連絡船(大津-長浜)を用いることによって武豊-名古屋-京都-神戸間の連絡が図られていたため、両京を結ぶ鉄道はこれを最大限に活用して早期に完成させるべきであるとの判断がなされ、これにより現行ルートが定まることになった。
結果、日本の鉄道開業である新橋駅-横浜駅間もその東西幹線に組み入れる形となた。
明治10年代末より横浜から静岡駅を経て大府駅に至る区間と関ヶ原駅から米原駅を経て大津に至る区間が建設され、1889年(明治22年)7月に全通、これにより現在の東海道本線の原型が完成した。
なお熱田から四日市宿を経て草津に至る、江戸時代の東海道のうち上記の東西幹線から外れた区間に関しては、明治中期になって関西鉄道がその沿線の振興を目的に鉄道を敷設し、現在の草津線と関西本線の一部(柘植駅-名古屋)になっている。
また新幹線に関しては、当初は名古屋から京都まで鈴鹿山脈を一直線にトンネルで抜けるルートでの敷設も計画されていたが、トンネルが長大になり建設に時間・費用を要すること、それに米原が北陸本線(旧:北陸道)との接続点になっていたこともあって、最終的には東海道本線に沿う現行ルートで敷設された。
以上の経緯については、中山道及び鉄道と政治の項目も参照のこと。