法学校 (Ho-gakko (law school))

法学校(ほうがっこう)は、明治初期に司法省が管轄した教育機関であり、現在の東京大学法学部の前身の一つである。
卒業者には「法律学士」の称号が与えられたが、帝国大学成立以前に「学士」の称号を与えることが出来た高等教育機関は、東京大学の他、司法省法学校、工部省工部大学校、開拓使札幌農学校、農商務省 (日本)駒場農学校である。

歴史

1871年(明治4年)9月に創設された司法省明法寮を起源にもつ。
設立には江藤新平が関与している。
当初は定員100名を想定していたが、予算の関係から20名に縮減された。
1872年(明治5年)7月に生徒20名を入学させ、フランス法を中心とする法学教育を行った。
途中で生徒の一部が中退し、新たに募集が行われたため、在籍者の総計は36名になる。
法学教育を担当したのは、フランス人御雇い外国人、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードとジョルジュ・ブスケである。
フランス語の教育は、事前にアンリ・ド・リブロールが施した。
1875年(明治8年)5月に司法省所管の法学校となった。
麹町区永楽町の司法省敷地内にあった旧信濃国松本藩(松平丹波守)邸の建物を使用していた。

1876年(明治9年)7月に第一期生20名が卒業した。
前年、フランスへ留学した7名中客死した2名を除く5名を加えた25名に対し、後に「法律学士」の称号が与えられた。
第一期生の卒業を受け、第二期生が入学。
第二期生以降は修業年限が8年(予科4年、本科4年)となった。
また、定員が20名から100名に拡張された。
予科はフランス語を中心とする普通教育、本科ではフランス語による法学教育が行われた。
法学教育を担当したのは、フランス人御雇い外国人ジョルジュ・アッペールである。
第二期生は1884年(明治17年)7月卒業したが、入学生104名中、卒業生は37名(法律学士33名、成業4名)である。
第二期生が本科に進んだ1880年(明治13年)9月に第三期生53名が入学。
司法省法学校としては、1884年(明治17年)10月に入学した第四期生75名が最後の生徒となる。
第三期生までは生徒全員が官費生であったが、第四期生から一部私費生となった。

1884年(明治17年)12月に文部省に移管されて東京法学校となり、1885年(明治18年)9月に東京大学法学部に統合された。

統合に伴い、在校生は東京大学法学部に移管され、中途退学者を除き1888年(明治21年)以降、帝国大学法科大学仏法科を卒業しているが、卒業生は第三期生36名、第四期生36名である。

8年制の「正則科」の他に、日本語により2年ないし3年間の法学教育を行った「速成科」もおかれ、第三期生まで教育を行った。

意義

卒業生は西洋近代法を修得した最初の世代であり、その多くは裁判官・検察官として明治期日本の司法を支えた。
また、第一期生はギュスターヴ・エミール・ボアソナードによる旧民法などの法典編纂に協力し、民法典論争においては断行派の中核となった。
このほか、第一期生の過半数は明治大学(明治法律学校)の創立に関与しており、その縁故で第二期生以降の中にも同学の講師となった者がいる。
また、出身者の何人かは関西大学(関西法律学校)の創立に関与している。

主な出身者

第一期生

磯部四郎(旧民法の編纂者)

一瀬勇三郎

井上正一

井上操(関西法律学校の創立者)

岩野新平

小倉久(関西法律学校の創立者、初代校長)

加太邦憲

岸本辰雄(明治法律学校の創立者、初代校長)

木下広次(京都帝国大学初代総長)

木下哲三郎

熊野敏三(旧民法の編纂者)

栗塚省吾

杉村虎一

高木豊三

宮城浩蔵(明治法律学校の創立者)

矢代操(明治法律学校の創立者)

第二期生

梅謙次郎

松室致(司法大臣)

秋月左都夫(読売新聞社社長)

富谷鉎太郎(大審院院長)

河村譲三郎(司法次官)

古賀廉造

手塚太郎

寺尾亨

水上長次郎(関西法律学校二代目校長)

陸羯南(「賄い征伐事件」で中途退学)

原敬(総理大臣)(「賄い征伐事件」で中途退学)

福本日南(「賄い征伐事件」で中途退学)

第三期生

横田秀雄(大審院院長)

水町袈裟六(大蔵次官)

木下友三郎(明治大学学長)

第四期生

若槻禮次郎(総理大臣)

勝本勘三郎

赤沼金三郎

岡村司

織田萬

荒井賢太郎

速成科第一期生

倉富勇三郎(枢密院議長)

[English Translation]