京都師範学校 (Kyoto Normal School)

京都師範学校 (きょうとしはんがっこう) は第二次世界大戦中の1943年 (昭和18年) に、京都府に設置された師範学校である。

本項は、京都府師範学校・京都府女子師範学校などの前身諸校を含めて記述する。

概要

京都府師範学校・京都府女子師範学校の統合・官立移管により設置された。
男子部・女子部を置いた。

1876年 (明治9年) 創立の京都府師範学校を起源とする。

第二次世界大戦後の学制改革で新制京都学芸大学 (現・京都教育大学) の母体の一つとなった。

前史

1874年6月4日: 京都府、小学校取締所内に小学校教員講習所を設置。

京都 下立売釜座 (現・京都市上京区、京都府庁北側) の旧京都守護職邸 (会津藩御用屋敷址) 内。

1875年2月: 京都府中学構内に教員仮講習所を設置。

京都府師範学校

1876年2月14日: 京都府権知事 槇村正直、宮内卿 徳大寺実則に師範学校設立の伺書を提出。

1876年4月1日: 京都府師範学校設立認可。

1876年6月2日: 開校式挙行。

京都御苑 石薬師御門内、准后里御殿を仮校舎とし2年生の小学師範学科を設置。

1878年3月: 第1回卒業。

1879年12月: 下立売釜座の新校舎に移転。

京都守護職御役 会津藩御用屋敷址 (現・京都府庁北側)。

1882年2月: 京都教育大学附属京都小学校を開設。

1882年7月: 師範学校教則大綱に準拠し教則・校則改正。

初等科 (1年)・中等科 (2年)・高等科 (4年) を設置。

1884年11月: 兵式体操を導入。

1886年1月23日: 京都府立鴨沂高等学校師範科を移管、京都府師範学校女子部とする。

附属小学校・京都教育大学附属幼稚園も移管。

校舎は上京区土手町丸太町下ル駒之町の九条邸跡に所在。

1887年4月1日: 師範学校令に準拠し京都府尋常師範学校と改称。

本科は修業年限4年、入学資格16歳以上、
1887年7月: 女子部が上京区寺町荒神口上ルの旧知事邸に移転。

1888年4月: 男子部が上京区第二二番組荒神口松蔭町の旧京都府立洛北中学校・高等学校校舎に移転。

現・京都府立鴨沂高等学校の南側付近。

1890年9月: 男子部校地に女子部も移転。

1898年4月1日: 師範教育令に準拠し京都府師範学校と改称。

本科は修業年限4年、入学資格 男子16歳以上・女子15歳以上。

1899年4月: 愛宕郡上賀茂村字小山に新築移転。

現・京都市北区小山南大野町・紫野東御所田町、京都教育大学附属京都小学校・京都教育大学附属京都中学校所在地。

同月、京都府教育会が師範学校予備科を開設 (1907年廃止)。

1908年1月: 学則制定 (京都府告示第156号)。

本科第一部(4年制。3年制高等小学校卒対象)・本科第二部(1年制。旧制中学校卒対象) を設置。

1908年4月: 女子部が京都府女子師範学校として分離独立。

京都府師範学校は男子校となった。

1909年5月: 校歌制定。
『紫野辺の暑さにも』 (黒本植 作詞、吉田恒三 作曲)。

1911年4月: 「入学試験事件」 発生。

本科第二部に同志社普通部卒の4名が志願した。
中学校令による中学校でないため科目免除が受けられず (志願者側の認識と異なった)、結局全員が不合格となった。
しかし、師範学校校長が 「同志社はキリスト教学校なので、入学して来てもらっては困る」 と発言した旨の誤報道がなされた。

1920年3月: 学則改正。予備科を新設 (1年制。2年制高等小学校卒対象)。

1925年4月: 本科第一部を5年制に変更、予備科を廃止。

1926年4月: 専攻科を開設 (1年制)。

1931年1月: 本科第二部を2年制に延長。

1939年5月: 傷痍軍人京都小学校教員養成所を併設。

1942年4月、傷痍軍人国民学校訓導京都養成所と改称 (1947年7月閉鎖)。

京都府女子師範学校

前史
1886年1月23日: 京都府立鴨沂高等学校師範科が京都府師範学校女子部となる。

1887年4月: 京都府尋常師範学校女子部と改称。

1887年7月: 府女学校校内から上京区寺町荒神口上ルの旧知事邸に移転。

1890年9月: 上京区第二二番組荒神口松蔭町の男子部校地に統合移転。

1898年4月: 京都府師範学校女子部と改称。

1899年4月: 愛宕郡上賀茂村字小山に新築移転。

京都府女子師範学校
1908年4月1日: 京都府師範学校女子部が分離独立し京都府女子師範学校開校 (京都府告示第72号)。

本科第一部 (4年制。3年制高等小学校卒対象)・本科第二部 (1年制。高等女学校卒対象) を設置。

上京区吉田町、私立吉田中学校旧校舎を仮校舎として発足。
京都市第一高等小学校・第二錦林尋常小学校を代用附属とする。

1910年4月: 愛宕郡大宮村字紫竹 (現・京都市北区) の新校舎に移転。

大宮村立待鳳尋常高等小学校を附属小学校とする。

1917年12月: 紀伊郡伏見町堀内村の農事試験場跡へ移転 (移転告示は1918年1月)。

現・京都市伏見区桃山井伊掃部東町、京都教育大学附属桃山中学校所在地。

1918年4月: 府立桃山高等女学校 (現・京都府立桃山高等学校) を併設。

同月、伏見住吉幼稚園・伏見第三尋常小学校を附属校に充当。

1921年2月: 本科第二部の修業年限を1年4ヶ月に延長。

1925年4月: 本科第一部を5年制に変更。

1926年4月: 専攻科を開設 (1年制)。

京都師範学校時代

1943年4月1日: 京都府師範学校・京都府女子師範学校を統合・官立移管し、京都師範学校設置。

旧京都府師範学校校舎に男子部、旧京都府女子師範学校校舎に女子部を設置。

本科 (3年制。旧制中等教育学校卒対象)・予科 (高等小学校卒対象) を設置。

1943年6月6日: 開講式を挙行。

1947年4月: 横田校長着任。

広域合併による大学昇格をにらみ、滋賀師範学校・奈良師範学校と協議。

1948年2月: 校長、文部省の一県一大学方針により、京都大学事務局長と折衝。

京都大学側には合併計画のないことを確認。
京都青年師範学校 (青師) は京大農学部への併合を希望していたため、京都師範単独での大学昇格を決断。

1948年4月: 昇格準備委員会発足。

1948年6月: 青師の京大農学部ブランチ案が流れ、青師と合同での昇格に変更。

1949年5月31日: 新制京都学芸大学発足。

京都師範学校は青師と共に母体として包括された。

旧・男子部校地に大学本部、旧・女子部校地に桃山分校、旧・青師校地に高原分教場を設置。

1951年3月: 京都学芸大学京都師範学校 (旧制)、廃止。

校地の変遷と継承

京都師範学校男子部
前身の京都府師範学校から引き継いだ京都市上京区 (現・京都市北区) 小山南大野町 (附属校は紫野東御所田町) の校地を使用した。
同校地は後身の新制京都学芸大学に引き継がれ、1957年9月に現在の伏見区深草藤森町 (大日本帝国陸軍歩兵第9連隊跡 → アメリカ軍キャンプ・フィッシャー跡) に移転するまで使用された。

小山南大野町の旧校地は、現在は京都教育大学 (1966年に京都学芸大学から改称) 附属京都中学校の校地となっている。
隣接する附属京都小学校は、引き続き紫野東御所田町の校地を使用し続けている。

京都師範学校女子部
前身の京都府女子師範学校から引き継いだ京都市伏見区桃山町 (現・桃山井伊掃部東町) の校地を使用した。
同校地は後身の新制京都学芸大学に引き継がれ、桃山分校となった。
桃山分校は 1957年4月に廃止となり、現在の伏見区深草藤森町の校地に統合移転した。
旧桃山校地は、現在は京都教育大学附属桃山中学校の校地となっている。

[English Translation]