旧制高等学校 (Kyusei Koto Gakko (higher school under the old system))
旧制高等学校(きゅうせいこうとうがっこう)とは、高等学校令(1894年および1918年)にもとづく、1950年まで存在した日本の高等教育機関である。
概要
教育内容は現在の大学の1・2年生にたいする教養課程に相当する。
しかし、当時の学生の気風や地位を考慮すると高等教育が大衆化した現代にこのような機関は存在しないといえる。
なお、高等学校と混同されることがあるが、現在の高等学校は中等教育機関であり、旧制中等教育学校(その代表格が旧制中学校)に相当する。
1886年の中学校令により設立された第一から第五、山口、鹿児島の7官立高等中学校のうち、鹿児島をのぞく6校を1894年高等学校に改組してはじまった。
当初は専門学部(4年制)、大学予科(3年制)の2系統であった。
しかし、学部は順次廃止(帝国大学昇格)ないし専門学校として分離され、帝国大学への予備教育をおこなう大学予科のみとなった。
1918年の高等学校令改正により各地で増設された。
7年制高等学校が出現し、「大学予科」は「高等科」に改称された。
高等学校の基本的性格
1894年の高等学校令では専門学科の教育をおこなう機関と定義され、但し書きにて帝国大学入学者のための予科教育が規定された。
専門学科は英米のカレッジを手本に、専門教育をさずけることを主要目的とし、「地方における最高学府」(地方大学)としての役割が期待された。
高等学校令に定義された専門学科の教育機関としての性格をそのまま反映した例が第三高等学校 (旧制)である。
第三高等学校は当初法学部、工学部、医学部の専門学部のみで開始した。
大学予科をもたなかった歴史をもつのは第三高等学校だけである。
1895年、西園寺公望は日清戦争で得た賠償金をもとに、第三高等学校を京都大学へ昇格させる提案をおこなった。
そこで、第三高等学校大学予科を東一条通の南側(現在の京大吉田南キャンパス)に設置した。
第三高等学校法学部および工学部の土地・建物・設備を京都帝国大学が利用するという案が採用され、翌年予算処置が可決された。
1897年6月18日に京都帝国大学設立に関する勅令が制定され、京都帝国大学が発足する。
岡山にあった第三高等学校医学部は1901年に岡山医学専門学校として分離独立した。
そのほかの高等学校でも、専門学部と大学予科は完全分離され、高等学校は帝国大学への予備教育のみをおこなう高等教育機関となった。
旧制高等学校専門学部の地方における高等専門教育機関としての役割は、後に、各地で増設されることになる帝国大学や旧制専門学校が担うことになった。
1918年に改正された高等学校令では男子の国民道徳を充実させ、高等普通教育を完成することを目的とした。
また公立、私立の高等学校設立がみとめられるようになり、第二次世界大戦終結後まで発展をとげた。
これら高等学校のエッセンスは帝国大学への進学保証制度であった。
旧制高校の1学年の定員と帝国大学のそれとは戦前期をつうじてほぼ1対1であった。
そのため、高等学校の卒業証書さえあれば、専攻をえらばないかぎり、どこかの帝国大学に無試験で入学できた。
こうした「身分保証」があったため、勉強はそこそこに学生生活を謳歌した学生もいた。
おなじ学年に3年とどまると放校(退学)となるため、「計画的」に高等科3年間の修業年限を1回ずつ落第し6年いつづけた猛者もいたという。
また、戦前社会のエリート層揺籃の場として機能した面もあり、当時の社会制度の根底をささえる機関の一つであった。
類似の制度に大学予科があった。
しかし、特定の旧制大学への進学を前提にするなど旧制高等学校とは違いがあり、別の機関である。
歴史
発足
そのはじめは文部省が東京につくった東京大学予備門である。
東京大学の初期の教官は「大臣よりも高い」俸給でやとわれた欧米のお雇い外国人たちがしめていた。
カリキュラムはヨーロッパの大学にならい、教科書、授業、ノート、答案はすべて外国語という状態であった。
このため、専門教育をうけるためにはまず英語やドイツ語等のたかい語学能力が不可欠であった。
これを身につける予備教育機関としてつくられたのが大学予備門であった。
1881年の政変で大隈重信を失脚させて実権をにぎった伊藤博文らは、官僚機構を整備するため、東京にある官立諸学校を文部省のつくった東京大学にすべて併合した。
そして、唯一の総合大学である「帝国大学」とあらため、ここを官吏、学者の養成学校とした。
東京大学が「帝国大学」となるとその予備教育機関は全国5学区にそれぞれおかれることになった。
東京大学予備門は第一学区(関東地方およびその周辺地域)の第一高等中学校となり、その後、高等学校令により第一高等学校 (旧制)となった。
高等学校の前身の詳細については高等中学校を参照。
誘致合戦
最終的に全国39あった旧制高校のなかでも、明治期に創設された第一高等学校から第八高等学校 (旧制)までは、早期から政財界に卒業生をおくりこんだ。
後発の学校よりも優位にたったため、他との区別で、特に「ナンバースクール」(「n高」から)とよばれた。
このため、新制に移行したあとも「ナンバースクールエリート校」という尊称のような慣用句的用法としてのこった。
各自治体での旧制中学時代もふくんだおもに公立高校を中心(一部では私立高校でも)に、数字のふされた学校をローカルに「○○のナンバースクール」などとよぶことがある。
第六高等学校 (旧制)以降は地元の誘致の熱意もその設立におおきな影響をあたえた。
第六高等学校の誘致には岡山と広島がその座をあらそっていた。
国会では代議士が国会議場の外で掴み合いになったといわれている。
第七高等学校造士館 (旧制)の場合は松本に内定していた。
それが諸般の事情で急遽鹿児島にかわった。
また、第九高等学校の設立をめぐっては新潟と松本のあいだで熾烈な誘致合戦がおこり、中傷合戦にいたる泥仕合化した。
しかし、最終的に「第九高等学校」と命名するのはさけ、新潟高等学校 (旧制)および松本高等学校 (旧制)と地名をつけることで決着した。
以後の設立高校の命名にはこの事態を考慮し、学校所在地にならった命名になった。
これらをさきの「ナンバースクール」との対比・区別の意味で、「地名校」あるいは「ネームスクール」とよぶ場合もある。
第二次高等学校令(高等学校令改正)
第二次高等学校令は1918年(大正7年)12月6日に公布され、翌1919年(大正8年)4月1日に施行された。
高等学校の性質についてはこれを「高等学校ハ高等普通教育ヲ授クル所トス」とした。
高等学校の構成については高等科3年・尋常科4年の7年制を基本とした。
例外的に高等科だけの学校も認めるとした。
尋常科は中学校の課程に相当するので予科の設置を認めた。
高等科卒業者のために修業年限1年の専攻科をおくことができるとし、その修了者には得業士の称号を与えることにした。
高等科の入学資格は高等学校尋常科修了または中学校第4学年修了程度(改正前は当時5年制であった中学校卒業程度)とし、年限短縮を実現した。
この修業年限短縮は以前から高等学校制度改革の根本にあったものである。
このため高等学校進学希望者は4年修了見込で高等学校を受験するのが一般的になり、合格するものも数多くでた。
尋常科の入学資格は小学校(国民学校)卒業程度とした。
なお、入学は4月に行われることになった。
官立以外の高等学校
1918年以降、高等学校は政府でなくても設立できるようになった。
おもな例として私立では東武鉄道の根津財閥が武蔵高等学校 (旧制)、当代一流の教育家であった沢柳政太郎が成城高等学校 (旧制)(現成城学園高等学校)、三菱財閥の岩崎家が成蹊高等学校 (旧制)、関西地方の財界人が甲南高等学校 (旧制)がある。
公立では地元の素封家が県に莫大な寄付をして設立した富山県立富山高等学校 (旧制)がある。
また、明治時代に宮内省が創設した学習院は華族の子弟の教育のために設立されたものであるが、1921年以降、制度的に旧制高等学校と同等に位置づけられた。
これらの学校は尋常科(4年制)、高等科(3年制)からなる7年制高等学校(学習院は尋常科にあたる中等科5年を併設した8年制)であり、一度尋常科に入学すれば帝国大学への進学が保証された。
一高をはじめとする官立の高校のおおくは当初の形態通り3年制の高等科だけをおいた。
終焉
第二次世界大戦終結後、アメリカの占領政策の影響もあって、女子の入学を許可する旧制高校があらわれだした。
女子学生は男子とおなじ学生帽あるいは庇をなくした学生帽をかぶって通学した。
女子学生は概してお客さん扱いで大事にされ、卒業後は帝大、新制大学に進学し、教職・研究職についたものがおおかった。
そんな旧制高校にも終焉のときがせまりつつあった。
教育刷新委員会副委員長の南原繁が廃止に積極的にうごいた。
南原も一高出身であったが、旧制高校の3年間はあそんでばかりで、学習内容は旧制中学のものを手直しした程度のものだったとそれほど旧制高校の教育に執着をもっていなかったことをのちに証言している。
南原は、ジェントルマンであれと強調した、一高時代の校長・新渡戸稲造への傾倒をくりかえしのべていた。
バンカラの気風に違和感をおぼえていたことがうかがえる。
戦後の学制改革によって旧制高等学校は旧制大学や他の高等教育機関と統合して、そのおおくは新制大学の教養部や文理学部の母体となった。
旧制高校在学中に学制改革によって新制大学に入学した人物には作家の野坂昭如(新潟高等学校から新潟大学、のち早稲田大学)、高橋和巳(松江高等学校 (旧制)から京都大学)、開高健(大阪高等学校 (旧制)から大阪市立大学)、小松左京(第三高等学校から京大)、堤清二(成城高等学校から東大)、井原高忠(学習院高等科から慶大)、旧制大学を前身としない大学学部卒ではじめて事務次官になった小長啓一(第六高等学校から岡山大学)らがいる。
また、映画監督の山田洋次は山口高等学校在学中に学制改革に遭遇し、新制東京都立小山台高等学校から東大にすすんだ。
学制改革実施前、「ジュニアカレッジ(改革後の短期大学に相当)」としての旧制高等学校存続を模索するうごきもあったが幻におわった。
旧制高等学校をなつかしむ卒業生は戦後においても日本寮歌祭をひらいたり、「日本の教育改革を進める会」を結成したりして旧制高等学校の長所をうったえた。
しかし、あくまで国立学校の高等教育機関としての復活を希求していたせいか、私立学校でエリートにたいする一般教養教育の短期大学や高等専門学校を設立するうごきはなかった。
ただし、公立ではこういう学校が存在した。
1950年に設立され、1955年に廃止された和歌山県立理科短期大学がそれである。
新制東京大学教養学部の設置は旧制高等学校の教養主義的な伝統をのこそうとしたうごきである。
また、終戦直後に国際基督教大学(ICU)教養学部の設立にたずさわった旧帝国大学卒の有力者たちはそのリベラル・アーツ・カレッジの理念に旧制高等学校のよさを継承させられる可能性を期待した。
入試・教育課程・卒業
入試
1901年、高等学校入試に「総合選抜制」がとられた。
「総合選抜制」は1908年廃止となったが、翌年から七高を除いた各校が試験問題を統一した。
1926年から官立高等学校受験者の便宜を考慮して、官立高等学校を2つの班に区分し、各班から1校ずつ志望指定できるものとした。
第1班は一高・五高・七高・新潟高・水戸高・山形高・松江高・東京高・大阪高・浦和高・静岡高・姫路高・広島高。
第2班は二高・三高・四高・六高・八高・松本高・山口高・松山高・佐賀高・弘前高・福岡高・高知高。
クラス編成
大学予科は第一部(法・文)、第二部(工・理・農)、第三部(医)にわかれていた。
分類例をあげると、法科志願者のうち、英語を主とする科は一部英法、ドイツ語を主とする科は一部独法、文科大学志望者のうち、英語を主とする科は一部英文、ドイツ語を主とする科は一部独文などである。
高等学校令改正の影響により大学予科は高等科に名称をあらためた。
文科と理科に大別され、履修する外国語により、文科甲類(第一外国語が英語)、文科乙類(ドイツ語)、文科丙類(フランス語)、理科甲類(英語)、理科乙類(ドイツ語)、理科丙類(フランス語)と細分された。
理科乙類は医学部・薬学部進学コースとなっていた。
ただし、フランス語を第一外国語にする類をおいた高校は第一高等学校・第三高等学校・静岡高等学校・福岡高等学校・大阪高等学校・浦和高等学校など少数にとどまった。
1926年の第四高等学校におけるクラス編成は文甲2クラス、文乙1クラス、理甲3クラス、理乙1クラスとなっていた。
卒業・大学入試
帝国大学の入学定員は旧制高校の卒業者数とほぼおなじだったので、志望する学科を選り好みしなければ、卒業後の帝国大学進学を保証された。
このため、地方の帝国大学や官立大学では募集学科によって定員割れが生じていた。
京城帝国大学や北海道帝国大学など後発大学では独自に「予科」を設けて早くから質のよい学生を確保する手法をとった。
1920年代になると、初期に設立された官立医学専門学校が官立医科大学へと昇格した。
帝国大学(独自の大学予科を持つ北海道帝大、京城帝大、台北帝大を除く)とおなじく医科大学なども独自の大学予科をもたなかった。
これらの大学へ進学するには旧制高等学校を卒業する必要があった。
このように「予科をもつ地方帝大」と「予科をもたない官立医大」の出現で旧制高校卒業=帝国大学進学という図式はくずれた。
一般的に医学部、東大京大の人気学科は志望者がおおいため、倍率が2倍、3倍となることもすくなくなかった。
もっとも試験科目は東大法学部の場合、英文和訳、和文英訳のみだった。
今風にいえば入ゼミ試験のようなものであった。
東京帝国大学理学部数学科の場合、外国語、数学、力学、物理であり、九州帝国大学工学部の場合、数学及力学、物理学、化学であり、九州帝国大学医学部の場合、外国語(英独仏ノ内二)、数学、物理、化学、動植物学であった。
人気学部・学科への進学においては浪人するものもすくなくなく、白線浪人とよばれた。
帝国大学の定員割れは、旧制高校卒業・卒業見込者での充足が優先された。
帝国大学などでは入学志願者選抜に際し、志願者の学歴によって優先順位を決定した。
予科をもたない大学の文系学部では高等学校文科卒業者に、理系学部では高等学校理科卒業者に、予科をもつ大学では予科修了者に、第一位の優先順位を与えた。
優先順位第一位の志願者数が定員を超えた場合は、第一位の志願者のみを対象とする競争試験を実施した。
この試験で不合格となり浪人する者が「白線浪人」と呼ばれることもあった。
優先順位第一位の志願者数が定員以下の場合は第一位全員を合格とし、欠員部分を優先順位第二位に振り向けた。
第二位以下の学歴による順位の決定方法は大学、学部ごとに異なる。
多くの場合、第二位以下に「高等学校卒業以外の学歴の者」が指定され、これにより入学した者は「傍系入学者」と呼ばれた。
したがって、高等師範学校や高等実業学校からの進学希望者は形式的には欠員補充であったが、帝国大学では定員充足を理由に傍系入学というあつかいで入学を許可されていた。
傍系入学者はとくに東京・京都以外の帝大では比較的おおくみられた。
学制改革による新制切り替えに際し、白線浪人対策(1949年11月29日付文部省通達)が行われた。
各旧制大学を二期に分け、1949年度(昭和24年度)選抜試験を実施した。
各旧制大学は入学定員をできるかぎり増加させ、二重入学や入学取消などを防止するため第一期の大学は合格発表をできるだけ早く行った。
なお、旧制大学が行う白線浪人対策は1950(昭和25)年入試で終了した。
帝国大学・官立医大入学者数
出典:大正15年発行『帝国大学入学試験問題集』付録/北辰書院
大正十五年各大学入学者数
東京帝大2363
京都帝大1381
九州帝大0608
東北帝大0392
新潟医大0060
岡山医大0061
千葉医大0061
金沢医大0060
長崎医大0063
戦時中の臨時措置
太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、1943年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。
ただし、終戦直後の1945年9月にふたたび修業年限3年にあらためられたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。
1940年4月入学→1942年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1941年4月入学→1943年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1942年4月入学→1943年11月仮卒業→1944年9月卒業(正規3年・半年短縮)
1943年4月入学→1945年3月卒業(正規2年)
1944年4月入学→1947年3月卒業(正規2年・1年延長)
1945年4月入学→1948年3月卒業(正規2年・1年延長)
1946年4月入学→1949年3月卒業(正規3年)
1947年4月入学→1950年3月卒業(正規3年)
1948年4月入学→1949年3月修了
白線帽にマント、高下駄は旧制高校生の典型的な身なりであり、寮歌を高吟して街をあるく姿はおおくの旧制中等学校生徒のあこがれであった。
帽子の白線は二条または三条であり、旧制高校生の象徴であった。
しかし、旧制私立高校では帽子に白線がない学校もあり、成城高校では生徒がそれを不満として「白線運動」をおこしたという。
一方、日大予科の帽子は旧制高校とそっくりな白線帽であった。
ナンバースクール
1886年(明治19年)4月10日、中学校令が公布された。
これにより全国五学区の各学区および山口ならびに鹿児島に官立高等中学校(旧制高等学校の前身)が設立された。
1886年、東京大学予備門は第一高等中学校に、大阪の大学分校は第三高等中学校(のちに京都に移転)に、山口中学校は山口高等中学校に改められた。
翌1887年(明治20年)、第二高等中学校(仙台)・第四高等中学校(金沢)・第五高等中学校(熊本)・鹿児島高等中学造士館があいついで設立された。
各校に付されている数字は第一から第五までは当時の学区(時期により変遷した)の番号であり、第六から第八までは設立順となっている。
初期に設立された第一から第五高等学校には当初、専門学部が置かれた。
1897年(明治30年)4月、学区制が撤廃され、学区に縛られることなく高等学校の受験が可能となった。
ネームスクール
第一次世界大戦の好景気にわく日本は同時に工業力の大発展をとげ、帝国大学の増設や学生定員の増加が社会的にもとめられることとなった。
これに対応して高等学校の数もふやす必要がしょうじるにいたった。
1918年(大正7年)、原内閣のもとで「高等諸学校創設及拡張計画」が4450万円 (通貨)の莫大な追加予算をともなって帝国議会に提出され可決された。
その計画では、大正8年から6年計画で、官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農林学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校 (旧制)1校、旧制薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であった。
その後、この計画はほぼ実現された。
このさい、新潟と松本のあいだで「第九高等学校」の名称の奪い合いがおきたため、番号をやめて地名をもちいるようになった。
そして、各地にネームスクールが誕生することになった。
高等学校の増加で番号による区別が困難になったこともその一因である。
七年制
七年制高等学校(尋常科4年・高等科3年)は制度的に高等教育機関と位置づけられているものの、実質的には一つの学校で中等・高等教育機関をかねていた。
七年制高等学校構想には当時の先端的な教育思想を信奉する教育家や英国流のパブリックスクールに傾倒していた国際派経済人がとびつき、おおくの七年制高等学校はスマートな気質の学生をそだてることをめざした。
武蔵高等学校 (旧制)のようにスポーツをきんじ、落第者・退校者を多数だすこともじせず、東京帝大への入学率で一高をぬいたことを自慢する学校すらあった。
八高出身のエッセイスト・三國一朗は東京帝大に入学したさい、七年制高等学校出身の東大生を目撃し、「異様なタイプの東大生の一群」とひょうしている。
七年制高等学校はスマートだが重量感にとぼしい受験秀才と文芸青年をうみだしたとの評価もある。
東京高等学校尋常科は設立からわずか13年、授業開始から12年で廃止されることになった。
その後も大阪府立浪速高等学校尋常科、公立から官立に移管した富山高等学校の尋常科もあいついで廃止された(東高尋常科は戦後の一時期、募集を再開)。
官立、公立で尋常科を持つのは台湾総督府が所管する台北高等学校と東京府が設立した府立高等学校のみとなった。
旧制高等学校群において初等教育機関を包含していた学校には甲南、成城、成蹊がある。
これらの小学校への入学が東京帝国大学をはじめとする帝国大学群への進学に直結することとなり人気をあつめた。
のちに東大総長となる加藤一郎も成城の小学校(現成城学園初等学校)から成城高等学校に進んでいる。
なお、旧制高等学校ではないが、学習院も初等教育機関を包含していた。
学制改革にさいしては、高等科は新制大学へ尋常科は新制中学校・高等学校へそれぞれ移行したとかんがえるのが一般的である。
その他
学校法人学習院の学習院中等科 (旧制)・学習院高等科 (旧制)(現在の学習院高等科・学習院大学)
学習院は学習院学制にもとづいて設立された官立の学校である。
また、宮内省直轄という特殊な教育機関であった。
当初は初等学科(6年)、中等学科(当初は6年のち5年)、補習科、高等学科、大学別科(1905年廃止)などが置かれていた。
しかし、1919年に初等科、中等科、高等科と改称され、学校教育法が施行されるまでその体制がつづいた。
当初の学習院学制では補習科および高等学科は中等科の卒業生を対象とした2年制の教育機関という位置づけとなっていた。
明治期から大正期にかけては帝国大学への進学も完全に保証されたものではなかった。
高等学科の卒業生は帝国大学側に定員割れがしょうじた場合や、院長の推薦によりのみ帝国大学への進学がゆるされるなど制度として一定していない。
ほかの旧制高校高等科卒業生とまったく同等の帝国大学への進学許可が制度的に保証されるようなったのは1921年の文部省令第二七号によるものである。
戦後特設高校
第二次世界大戦後、医学・歯学教育は大学(旧制大学)でおこなうこととなった。
旧制医学専門学校あるいは旧制歯科医学専門学校は旧制大学に昇格した。
しかし、このうちいくつかは大学昇格の基準をみたすことができず在校生徒救済のために旧制高等学校に改変された。
これを戦後特設高校とよぶ(ただし、官立徳島高等学校は異なる経緯で旧制高校となった)。
医大の予科的な位置づけであり、一部は学制改革時新設された新制大学に包括された。
大学予科
旧制高等学校に類似するものの(大学令により設立されたもの)、個別に連携された大学へのみ進学を前提とした高等教育機関である。
この点は旧制高等学校とは制度的におおきくことなる。