大報恩寺 (Daihoon-ji Temple)
大報恩寺(だいほうおんじ)は京都市上京区にある真言宗智山派の寺院で山号は瑞応山。
通称千本釈迦堂。
おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。
創建
鎌倉時代初期の安貞元年(1227年)義空によって創建された。
義空は藤原秀衡の孫で叡山で修行の後ここを建立した。
本堂は摂津の材木商の寄進をうけ完成した。
本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている(後述)。
倶舎(くしゃ)・天台・真言の三宗兼学を朝廷より許された。
この本堂は応仁文明の乱にも焼けることはなく創建当時のもので洛中最古の建造物で国宝となっている。
大報恩寺には近隣の北野天神(北野天満宮)門前にあった「北野経王堂」の遺物も保管されている。
北野経王堂は、足利義満が明徳の乱(山名氏清の乱)の戦没者を悼んで応永8年(1401年)に建立したものであったが、明治初年の神仏分離によって破却された。
おかめの物語
本堂を造営する際、大工の棟梁であった高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。
それを見た妻のおかめが枡組を用いたらどうかとひと言アドバイスし結果無事に竣工させることができた。
おかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。
高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。
その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。
度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。
年中行事
節分会 - おかめ節分ともいわれ2月の節分におかめ塚で豆まきがおかめ音頭などが行われる。
千本の釈迦念仏 - 遺教経会ともいわれる。
二世の如輪により文永年間に始められた。
吉田兼好の徒然草にも記録がある。
大根焚き - 12月7日・12月8日に行なわれる成道会法要。
鎌倉時代に、当寺の僧・慈禅が、法要の際に大根の切り口に梵字を書いて息災祈願を行なったのが起源とされ、今日では、この大根を食べると中風など諸病除けになるとされている。
国宝
本堂(附 厨子、旧棟木、棟札)
重要文化財
木造釈迦如来坐像(附 天蓋)-当寺の本尊。
鎌倉時代の仏師快慶の弟子である行快の作。
(秘仏)
木造十大弟子立像 10躯(附 像内納入経)-納入品や銘記から建保6年(1218年)快慶の作と判明する。
木造六観音像 6躯(附 像内納入経)-定慶作。
聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、馬頭観音、准胝観音の6体。
鎌倉時代には「定慶」という名の仏師が他にもいるが、本群像の作者は「肥後別当定慶」である。
作風には宋風が顕著で、写実的な表情と絵画的で複雑な衣文が特色である。
等身大の六観音像が揃って残るのは珍しい。
北野経王堂旧所在。
銅造誕生釈迦仏立像
木造千手観音立像
木造傳大士(ふたいし)及二童子像 3躯-北野経王堂の遺物である。
応永25年(1418年)、仏師院隆の作。
だ太鼓縁 一対
北野経王堂一切経 5,048帖(うち補写経232帖)-応永19年(1412年)、覚蔵坊増範という僧の発願で書写された一切経で、書写(版本でない)一切経としては日本史上最後のものと言われている。
その他
おかめ塚とおかめ像
像は本堂内にもあり、信者から寄進されたおかめ人形や面も多数展示されている。