妙法院 (Myoho-in Temple)

妙法院(みょうほういん)は京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。
山号を南叡山と称する。
本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。
皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。
また、後白河天皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。
近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。
(三十三間堂については別項「三十三間堂」を参照。)

起源

妙法院は著名社寺が集中する京都市東山区南部に位置する。
付近は後白河法皇の居所であった法住寺殿の旧地であり、近隣には智積院、京都国立博物館、方広寺(大仏)、三十三間堂、新日吉神宮(いまひえじんぐう)、後白河法皇法住寺陵などがある。
近世初期建立の豪壮な庫裏(国宝)や大書院(重要文化財)などが建つが、寺内は秋季などの特別公開の時を除いて一般には公開されていない。

天台宗の他の門跡寺院(青蓮院、三千院など)と同様、妙法院は比叡山上にあった坊(小寺院)がその起源とされ、初代門主は伝教大師最澄(767-822)とされている。
その後、平安時代末期(12世紀)、後白河法皇の時代に洛中に移転し、一時は綾小路小坂(現在の京都市東山区・八坂神社の南西あたりと推定される)に所在したが、近世初期に現在地である法住寺殿跡地に移転した。

『華頂要略』等の記録によると、比叡山三塔のうちの西塔に所在した「本覚院」が妙法院の起源とされている。
しかし、妙法院と本覚院の関係は必ずしも明確でなく、本覚院から分かれて妙法院が成立したとする説、逆に妙法院から本覚院が分かれたとする説、妙法院は本覚院の別号だとする説などがある。
また、妙法院が比叡山から洛中に移転した時期、綾小路小坂から現在地に移転した時期についても正確なことは不明で、近世以前の寺史は錯綜している。

後白河法皇と尊性法親王

事実上、妙法院が日本史に登場するのは後白河法皇の時代である。
後白河天皇(1127-1192)は、在位3年足らずで譲位し、保元3年(1158年)には太上天皇、嘉応元年(1169年)には出家して法皇となった。
この間、後白河上皇は譲位後の居所(院御所)である法住寺殿の造営を進め、永暦2年(1161年)からはここに住むようになった。
ここで院政が行われ、また御所の西側に千体千手観音像を安置する巨大な仏堂(蓮華王院=三十三間堂)が建てられたことは史上名高い(三十三間堂の落慶は長寛2年/1164年)。
後白河上皇は永暦元年(1160年)、御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請し、新日吉社(いまひえしゃ)とした(新日吉社は「新日吉神宮」として現代まで存続している)。
この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。
昌雲は御子左家(みこひだりけ)の藤原忠成の子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた快修の甥にあたる。
昌雲は後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったという。
妙法院の門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇(法名は行真)、16代が昌雲となっている。
続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。
18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。

鎌倉時代の妙法院は「綾小路房」「綾小路御所」「綾小路宮」などと呼ばれたことが記録からわかり、現在の京都市東山区祇園町南側あたりに主要な房舎が存在したと思われるが、方広寺大仏に隣接する現在地への移転の時期などは正確にはわかっていない。

近世以降

豊臣秀吉が造営していた方広寺の大仏殿が完成したのは文禄4年(1595年)のことであった。
この年以降、秀吉は亡父母や先祖の菩提を弔うため、当時の日本仏教の八宗(天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向)の僧を集めた「千僧供養」を「大仏経堂」で行った。
この「大仏経堂」は妙法院に所属し、千僧供養に出仕する千人もの僧の食事を準備した台所が、現存する妙法院庫裏(国宝)だとされている。
庫裏自体の正確な建立年代は不明だが、秀吉の千僧供養に妙法院が関与していたことは当時の日記や文書から明らかであり、妙法院は遅くとも16世紀末には現在地へ移転していたことがわかる。

近世の妙法院は、方広寺、蓮華王院(三十三間堂)、新日吉社を兼帯する大寺院であった。
妙法院門主が方広寺住職を兼務するようになったのは元和 (日本)元年(1615年)からである。
これは大坂の陣で豊臣宗家が江戸幕府に滅ぼされたことを受けての沙汰である。
戦後幕府によって進められた豊国神社 (京都市)破却の流れのなかで、当時の妙法院門主であった常胤は積極的に幕府に協力、豊国神社に保管された秀吉の遺品や神宮寺(豊国神社別当神龍院梵舜の役宅)を横領することに成功している。
三十三間堂については、創立者である後白河法皇との関係から、早くから妙法院が関与していた。
正応4年(1291年)の後白河法皇百回忌供養は、妙法院門主の尊教が三十三間堂において行っており、以後、50年ごとの聖忌供養は妙法院門主が三十三間堂にて行うことが慣例となっている。
近代に入って方広寺と新日吉社は独立したが、三十三間堂は現代に至るまで妙法院の所属となっている。

妙法院は、幕末には、三条実美ら尊皇攘夷派の公卿7人が京都から追放された「七卿落ち」の舞台ともなっている。

伽藍

伽藍は西側を正面とし、東大路通りに面して唐門と通用門がある。
境内は西側正面に玄関、その左手に庫裏、右手に宸殿が建ち、東側の境内奥には大書院、白書院、護摩堂、聖天堂などが建つ。
これらの堂宇の間は渡り廊下でつながれている。
本尊普賢菩薩を安置する本堂(普賢堂)は、やや離れた境内東南方に建つ。

国宝

庫裏-桃山時代の建築。
庫裏は寺院の台所兼事務所の役割を果たす内向きの建物である。
妙法院庫裏は、豊臣秀吉が先祖のための「千僧供養」を行った際の台所として使用されたと伝える豪壮な建物である。
庫裏は屋根を切妻造とするものが多いが、当院の庫裏は入母屋造とする。
内部は土間、板間、座敷の3部分に分かれ、土間・板間部分は天井板を張らず、貫・梁などの構造材をそのまま見せた豪快な造りになる。

ポルトガル国印度副王親書-1588年(日本の天正16年)、インド半島西岸に位置するポルトガル領ゴア州の副王から豊臣秀吉に宛てた羊皮紙の書簡で、内容は当時の日本が行っていたキリスト教弾圧政策の緩和を求めたものである。
豊臣秀吉を祀る豊国廟が破却された際、妙法院に移管された品の1つである。

重要文化財

大書院-大書院と玄関は、元和5年(1619年)、東福門院入内の際に建築された女御御所の建物を移築したものと伝え、様式的にもその頃のものと考えられている。

玄関
絹本著色後白河法皇像
妙法院障壁画 58面(附14面、1基)-玄関、大書院一之間・二之間の障壁画で、近世初期の狩野派の作と思われる。
大書院裏之間の障壁画14面と玄関所在の衝立1基は附(つけたり)指定となっている。

木造不動明王立像-護摩堂本尊。
平安時代前期。

木造普賢菩薩騎象像-本堂(普賢堂)本尊。
平安時代末期。

秋草蒔絵文台
内証仏法相承血脈譜
後小松天皇宸翰消息
堂供養記(春記、大記)

アクセス

(所在地)京都市東山区東大路通り渋谷下ル妙法院前側町
(アクセス)京都市営バス東山七条バス停下車すぐ。
(通常は非公開。例年11月頃に特別公開あり)

[English Translation]