寂光院 (Jakko-in Temple)
寂光院(じゃっこういん)は、京都市左京区大原にある天台宗の寺院。
山号を清香山と称する。
寺号は玉泉寺。
本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は聖徳太子と伝える。
平清盛の娘・建礼門院が、平家滅亡後隠棲した所であり、『平家物語』ゆかりの寺として知られる。
起源と歴史
寂光院の草創について、明確なことはわかっていない。
寺伝では推古天皇2年(594年)、聖徳太子が父用明天皇の菩提のため開創したとされ、太子の乳母玉照姫(恵善尼)が初代住職であるという。
しかし、江戸時代の地誌には空海開基説(『都名所図会』)、11世紀末に大原に隠棲し大原声明を完成させた融通念仏の祖良忍が開いたとの説(『京羽二重』)もある。
哲学者梅原猛は、大原が小野妹子の領地であったことなどから、聖徳太子開基もありうるとしている。
現在、寂光院はそうした草創伝説よりも、『平家物語』に登場する建礼門院隠棲のゆかりの地として知られている。
建礼門院徳子(1155-1213)は平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母である。
寿永4年(1185年)、壇ノ浦で平家一族が滅亡した後も生き残り、侍女の阿波内侍とともに尼となって寂光院で余生を送った。
寂光院や三千院のある大原の里は、念仏行者の修行の地であり、貴人の隠棲の地であった。
平家一門と高倉・安徳両帝の冥福をひたすら祈っていた建礼門院をたずねて後白河天皇が寂光院を訪れるのは文治2年(1186年)のことで、この故事は『平家物語』の「大原御幸」の段において語られ、物語のテーマである「諸行無常」を象徴するエピソードとして人々に愛読された。
境内
本堂は淀殿(淀君)の命で片桐且元が慶長年間(1596-1615)再興したものであったが、平成12年(2000年)5月9日の不審火で焼失した。
この際、本尊の地蔵菩薩立像(重文)も焼損し、堂内にあった建礼門院と阿波内侍の張り子像(建礼門院の手紙や写経を使用して作ったものという)も焼けてしまった。
現在の本堂は平成17年(2005年)6月再建された。
同時に新しく作られた本尊や建礼門院と阿波内侍の像も安置されている。
宝物殿は「松智鳳殿」という名称で、平成18年(2006年)10月に開館した。
建礼門院の陵墓はもともと境内地にあったが、明治以降は宮内省(現・宮内庁)の管理下に移り、境内から切り離されている。
文化財
地蔵菩薩立像(重文)-当寺の旧本尊である。
寛喜元年(1229年)の作で、像高256センチの大作である。
像内に3,000体以上の地蔵菩薩の小像ほか、多くの納入品を納めていた。
2000年に起きた本堂の火災の際、(2007年5月9日時効成立)本体は焼損したが、像内納入品は無事で、現在も「木造地蔵菩薩立像(焼損)」の名称で、像内納入品ともども重要文化財に継続して指定されている。
現在は本堂よりも高台にある収蔵庫に安置され、特定日のみ一般に公開される。
なお、新しい本尊像は財団法人美術院国宝修理所によって3年半をかけて制作され、2005年に完成した。
ヒノキ材の寄木造で、旧本尊の新造時の姿を忠実に模している。
建礼門院と阿波内侍の像は、もともと張り子像であったが、今回木造で作り直された。