法住寺 (京都市) (Hoju-ji Temple (Kyoto City))
法住寺(ほうじゅうじ)は日本の京都市東山区にある天台宗の仏教寺院である。
概要
平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後院政期にはこの寺を中心に後白河天皇の宮廷「法住寺殿」がいとなまれた。
法住寺殿が源義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河上皇もなくなると、法住寺は後白河上皇の天皇陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治時代期に御陵と寺が分離され現在にいたる。
寺内の『身代不動明王(みがわりふどうみょうおう)』像は、平安期の作風とされる。
この不動像は寺伝では慈覚大師が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。
義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝えられており、現在も毎年11月15日には不動会(ふどうえ)がいとなまれる。
平安中期
988年(永延2年)、太政大臣藤原為光が法住寺の落慶法要をいとなんだことが『日本紀略』『扶桑略記』などにみえる。
寺域の釈迦堂には本尊金色丈六釈迦如来、薬師如来、観音菩薩、延命菩薩、如意輪菩薩、法華三昧堂には普賢菩薩、常行三昧堂には阿弥陀如来が安置され、円融天皇をむかえて豪華な法要がいとなまれた。
為光は985年(寛和元年)に妻と花山天皇の女御であった娘を相次いでうしなっており、その菩提を弔う目的でこの寺を創建したという。
為光は現世の栄達をすて、ここで念仏三昧の生活をおくった。
992年(正暦3年)、為光の死にあたっては「封戸100戸」が寺に寄進された。
為光死後、しばらくのあいだ法住寺は子孫によってまもられていたが、1032年(長元5年)、九条邸から燃えひろがった火災によって焼亡。
このあと約120年間、大規模な再建などの記録はみられない。
院政期
1161年(永暦2年)から、藤原為光が建立した法住寺を中心とした地域に、為光の寺院を包摂するかたちで後白河上皇の御所がいとなまれる。
これが法住寺殿である。
その敷地は十余町、平家をうしろだてにした上皇の権威で、周囲の建物はとりこわされ、広大な敷地に南殿、西殿、北殿の三御所がつくられた。
狭義の法住寺殿はこの南殿をいう。
南殿には上皇のすまいとともに、東小御堂、不動堂、千手堂がたちならび、広大な池もあった。
1163年(長寛元年)には、三十三間堂(三十三間堂)が平清盛の寄進で南殿の北側に造立された。
また新日吉神社、新熊野本宮も法住寺殿内に建立された。
1176年(安元2年)後白河上皇の女御建春門院(平滋子)が亡くなると、女御の御陵として法華堂が建てられた。
上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿ではあったが、1183年(寿永2年)木曾義仲の軍勢によって南殿に火がかけられ(法住寺合戦)、上皇は北の門から新日吉神社へむけ輿にのって逃亡、以後上皇は六条西洞院の長講堂に移りそこで生涯をおえる。
1192年(建久3年)後白河上皇の死により、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂がつくられ、上皇の御陵とさだめられた。
この法華堂は建春門院の法華堂の南側にあたり、蓮華王院(三十三間堂)に対面して二堂が並立していたと推定されている。
建春門院の法華堂は14世紀には破損がひどかったという記録があり(『花園天皇宸記』)、現在は、後白河上皇の法華堂のみが残っている。
鎌倉期から江戸末期まで
その後法住寺は後白河天皇の御陵をまもる寺として長く存続した。
前述のごとく鎌倉時代までは建春門院をまつる法華堂、後白河上皇をまつる法華堂が、蓮華王院の東にならびたっていた。
時の権力の変遷にともなって法住寺はいくつかの近隣寺院と関係をもった。
とくに妙法院との関係は密接で、後白河上皇が比叡山の妙法院を京都に移した際、妙法院住職に法住寺、新日吉神社を付託し門跡寺院としたという機縁がある。
豊臣政権下では、すぐ北にあった方広寺(大仏)が法住寺や蓮華王院の寺域を包摂するということもあったが、徳川政権によって妙法院が重要視されるようになると、妙法院と一体視され、法住寺は妙法院門跡の「院家」として待遇された。
妙法院の日記である『妙法院日次記』には、江戸時代を通じて、法住寺の名前があがっている。
また現在は法住寺と分離されている隣接の後白河天皇陵内に『法住寺』と書かれた江戸時代の手水鉢があり、後白河天皇の陵を継続してまもってきたことが知られる。
なお妙法院に住持した歴代法親王(門跡)の墓所も法住寺境内にあった。
また元禄期には大石良雄がこの法住寺に参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造も安置されている。
幕末に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れたとき、当時の住持が御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったと言われている。
明治初頭から現在
明治期にはいると、後白河天皇稜と妙法院門跡法親王の墓所が寺域から分離され、宮内省の管轄におかれた。
明治の初め、東山渋谷にあった仏光寺から親鸞ゆかりとされる阿弥陀像や、親鸞の木造(そば喰いの像)がうつされている。
法住寺は明治期から昭和にかけて『大興徳院』と寺名が改称されたが、1955年(昭和30年)法住寺に復名。
明治時代初頭に後白河天皇陵をまもるという役割は形式上はおわったが、陵におかれている後白河上皇像の模作を1991年(平成3年)に造立し安置するなど、現在でも密接な関係をもっている。
また上皇が愛した今様の歌合せも復元して行われている。
後白河天皇法住寺陵
法住寺と隣接する。
宮内庁月輪陵墓監区事務所の管轄。
住所
京都市東山区三十三間堂廻り町
おもな行事(2005年現在)
1月15日 無病息災大根炊き(不動明王に備えた大根を大鍋で炊いて接待)
5月2日 後白河院御聖忌法要(5月1日~7日には後白河上皇の木像が開扉公開される)
10月第2日曜日 今様歌合せ(日本今様歌舞楽会の奉仕)
11月15日 身代不動尊大祭(採灯護摩供養、舞楽の奉納)
12月14日 義士大祭(法要ののち献茶式、討入そば接待)