法起寺 (Hoki-ji Temple)
法起寺(ほうきじ、ほっきじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院。
古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)とも呼ばれた。
山号は「岡本山」(ただし、奈良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである)。
本尊は十一面観音。
聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもあるが、寺の完成は太子が没して数十年後のことである。
「法隆寺地域の仏教建造物」の一部として世界遺産に登録されている。
寺名は20世紀末頃までの文献では「ほっきじ」と読んでいたが、現在、寺側では「ほうきじ」を正式の読みとしている。
これは、法起寺が法隆寺とともに世界遺産に登録されるにあたり、「法」の読み方に一貫性が欲しい、という理由により、高田良信法隆寺管長により、「ほうきじ」を正式とする、という判断がされたためである。
長年の親しみもあり、今でも「ほっきじ」と読む人は多い。
歴史
世界遺産・法隆寺が所在する斑鳩(いかるが)の里には、他にも法起寺、法輪寺 (斑鳩町)、中宮寺など、聖徳太子ゆかりの古代寺院が存在する。
この地が早くから仏教文化の栄えた地であったことがわかる。
法起寺は法隆寺東院の北東方の山裾の岡本地区に位置する。
この地は聖徳太子が法華経を講じた「岡本宮」の跡地と言われる。
太子の遺言により子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりとされている。
境内周辺の発掘調査の結果、掘立柱(礎石を据えずに地面に直接柱を立てる)建物の遺構が検出された。
つまり法起寺創建以前に何らかの前身建物が存在したことは確認されている。
創建当時の法起寺の伽藍は、金堂と塔が左右(東西)に並び、法隆寺西院の伽藍配置と似る。
しかし法隆寺とは逆に金堂が西、塔が東に建っている。
このような形式を「法起寺式伽藍配置」と称している。
なお、創建当時の建築で現存するものは三重塔のみである。
三重塔の建立時期、及び寺の建立経緯については、『聖徳太子伝私記』(仁治3年・1242年、顕真著)という中世の記録に引用されている「法起寺三重塔露盤銘」という史料がよりどころとなっている。
それによれば、岡本宮は聖徳太子の遺願によって寺に改められることとなった。
舒明天皇10年(638年)、福亮僧正なる人物によって弥勒仏を本尊とする金堂が建てられた。
塔は恵施 (僧)僧正によって天武天皇13年(684年)に起工、慶雲3年(706年)に至って完成したという。
金堂の建立から塔の完成までには数十年を要したことになる。
「法起寺三重塔露盤銘」については、かつて建築史学者の関野貞(1868年 - 1935年)などが偽作説を唱えた。
しかしその後の研究の進展により、おおむね信頼できる史料と認められるようになった。
建築様式の点からも、法起寺塔を706年頃の完成と見るのはおおむね妥当とされている。
三重塔
建立時期については前述のとおりである。
高さ24メートルで、三重塔としては日本最古である。
また、特異な形式の三重塔である薬師寺東塔を除けば、日本最大の三重塔と言われている。
日本の木造塔は方三間(正側面のいずれにも柱が4本並び、柱間の数が3つになるという意味)が原則である。
しかしこの塔は初層・二層の柱間が3間、三層の柱間が2間という特殊な形式になる。
ほぼ同時代の法隆寺五重塔も最上部の五層の柱間を2間としている。
また法隆寺五重塔の初層・三層・五層の大きさが法起寺三重塔の初層・二層・三層にほぼ等しいことが指摘されている。
この塔は中世に大きく改造され、三層の柱間も3間に変更されていた。
しかし1970年~1975年の解体修理の際、部材に残る痕跡を元に、創建当時の形に復元した。
二層と三層の高欄(手すり)も解体修理時の復元である。
伽藍
三重塔 - 既述
講堂 - 1694年の再建
聖天堂 - 1863年の再建
表門 - 江戸時代初期の再建、四脚門
文化財
境内が国の史跡に指定されている。
国宝
三重塔
重要文化財
木造十一面観音立像 - 収蔵庫に安置。
像高3.5メートル。
10世紀後半の作とされる。
銅造菩薩立像 - 7世紀後半の作とされる。
奈良国立博物館に寄託。
所在地
〒636-0100 奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本1873番地
アクセス
西日本旅客鉄道法隆寺駅下車