海龍王寺 (Kairyuo-ji Temple)
海龍王寺(かいりゅうおうじ)は奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。
本尊は十一面観音。
藤原不比等邸宅の北東隅に建てられたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
歴史
海龍王寺は平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。
法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原氏の先祖である藤原不比等の邸宅であった。
不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。
海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書(もんじょ)などの奈良時代の記録では「隅寺」・「隅院」などと呼ばれている。
正倉院文書によれば、天平9年(737年)には「隅寺」の存在が確認できる。
「隅寺」とは、藤原不比等邸の東北の隅にあったことから付けられた名称と言われている(「平城京の東北隅にあったため」と解説する資料が多いが、位置関係から見て妥当とは思われない)。
「隅寺」の創建について、伝承では天平7年(735年)、光明皇后の発願で僧・玄ボウのために建立したというが、このことは正史に記載がなく、創建時期や事情について正確なところはわかっていない。
なお、海龍王寺境内からは飛鳥時代から奈良時代前期の古瓦が出土しており、平城京遷都以前に何らかの前身建物が存在した可能性が指摘されている。
海龍王寺の敷地は、平城京の整然とした条坊(碁盤目状の町割り)からずれて位置しており、平城京内を南北に貫通する道の一つである東二坊大路は、海龍王寺の境内を避けて、東方向に迂回している(現在の道路にもその名残りが見られる)。
このことは、先に寺があり、後から道がつくられたことを意味している。
発掘調査の結果により、奈良時代の海龍王寺には、小規模ながら、中金堂、東金堂、西金堂の3つの金堂があったことがわかっている。
現存する西金堂は、位置、規模等は奈良時代のままであるが、鎌倉時代に再建に近い修理を受けており、主要な部材はおおむね鎌倉時代のものに代わっている。
平安時代の寺史についてはあまりはっきりしていないが、興福寺の支配下にあったようである。
鎌倉時代には、真言律宗の宗祖である叡尊が嘉禎2年(1236年)から暦仁元年(1238年)まで当寺に住し、復興を行った。
海龍王寺という寺号がいつごろから使われるようになったのはわかっていないが、文献上は、大江親通が保延6年(1140年)に奈良の諸寺をめぐった記録である『七大寺巡礼私記』が「海龍王寺」という名称の初見である。
建造物
本堂-江戸時代、寛文6年(1666年)の再建。
西金堂(重要文化財)-奈良時代に建立(鎌倉時代に大修理)、五重小塔を安置。
経蔵(重要文化財)-鎌倉時代に建立、西大寺_(奈良市)の僧・叡尊(えいそん)により造立されたと伝わる。
山門・築地塀-室町時代に建立。
国宝
五重小塔
西金堂内に安置。
高さ4メートルの小塔で、当初から屋内に安置されていたもの。
様式が薬師寺の三重塔に類似しており、遺例の少ない奈良時代建築の様式を知るうえで重要である。
重要文化財
西金堂
経蔵
木造十一面観音立像-海龍王寺の本尊となっている鎌倉時代の像。
木造文殊菩薩立像-鎌倉時代、伝快慶作。
絹本着色毘沙門天像-鎌倉時代、奈良国立博物館寄託。
木造寺門勅額-聖武天皇の宸翰と伝わる。
鍍金舎利塔鍍金舎利塔(正応三年七月銘)-奈良国立博物館寄託。
その他の文化財
海龍王経-奈良時代、奈良国立博物館寄託。
隅寺心経-奈良時代 奈良国立博物館寄託。
空海の書写したと伝わるが、実際は空海より古い奈良時代の書写。
法華経-鎌倉時代。
アクセス
JR関西本線奈良駅・近鉄奈良駅より奈良交通バス(西大寺駅・航空自衛隊行き)「法華寺」下車すぐ
近畿日本鉄道大和西大寺駅より奈良交通バス(JR奈良駅・白土町行き)「法華寺」下車すぐ
所在地
〒630-8001 奈良市法華寺北町897