瑞泉寺 (京都市) (Zuisen-ji Temple (Kyoto City))

瑞泉寺(ずいせんじ)は 京都府京都市中京区木屋町三条下る石屋町にある寺院である。
山号は慈舟山。

歴史

桃山時代ここは三条河原の中洲であった。
高瀬川 (京都府)の工事中に偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。
それは文禄4年(1595年)自害させられた、豊臣秀次の石塔だった。
実は高瀬川の開削責任者だった京都の豪商、角倉了以の実弟吉田宗恂は、秀次に仕えていた。
秀次事件への連座は免れたが、慶長15年(1610年)に亡くなっていた。
宗恂の一周忌の慶長16年(1611年)に、了以は秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名「瑞泉寺殿」から名を取り、瑞泉寺を建立した。

瑞泉寺は建立以来400年間にわたり、冤罪により死罪となった豊臣秀次と一族・家臣の菩提を供養してきた。
この地は観光地の近くとあって、当寺院に来訪する人が多く、秀次と一族・家臣の菩提に向かって、手を合わせる人が絶えることがない。

秀次悪逆塚

秀次悪逆塚は、豊臣秀次とその妻妾子女30人余の遺骸が埋められた、京都三条河原にあった塚で、秀次の悪称とされた「殺生関白」から畜生塚ともいわれた。

文禄4年7月、秀次は罪を得て関白の職を剥がれて高野山に放たれ、7月15日、切腹を命じられ、山本主殿、山田三十郎、不破伴作など5人もまた自殺し、秀次の首は伏見で秀吉の首実検に供され、三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)された。
秀次の妻妾は多く、幼児などを合わせて30余人、捕らえられ、8月2日、三条河原で打首、秀次の首とともに河原に埋められ、塚が建てられ、石塔が置かれ、「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。
「畜生塚」と称され、かえりみる者は無かったが、順慶という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。
順慶の死後、洪水に塚が荒れ、慶長16年、角倉了以が高瀬川を開くとき、そのあとを哀れみ、塚を営み、石塔の「悪逆」の2文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建て、江戸幕府に請い求めて堂を営み、「慈周山瑞泉寺」と号した。

墓所

豊臣秀次 墓石(秀次の首が入れられた石の櫃)
秀次の幼児、妻妾たち39人の五輪の塔
賜死した家臣10人の五輪の塔

寺宝

処刑者の辞世の和歌

補足

豊臣秀次と母とも(智:日秀)の墓所は、善正寺 (京都市)にある。

毎年命日の7月15日に、善正寺と瑞龍寺 (近江八幡市)の住職により、滋賀県近江八幡市にある、八幡山(秀次の時代八幡山城があった)で、秀次の供養が行われている。

[English Translation]