長弓寺 (Chokyu-ji Temple)
長弓寺(ちょうきゅうじ)は、奈良県生駒市上町にある真言律宗の寺院。
山号は真弓山。
本尊は十一面観音。
開基(創立者)は行基と伝える。
国宝の本堂は鎌倉時代の密教仏堂の代表作として知られる。
歴史
長弓寺の創建についてはいくつかの説があり、定説を見ない。
『長弓寺縁起』によると奈良時代に息子の流れ矢に当たって死んだ豪族・真弓長弓(まゆみたけゆみ)を悼み、聖武天皇が僧・行基に開かせたと伝わる。
後に藤原良継が堂塔を整えたとされる。
盛時には塔頭が20院あったとされるが、現在は4坊が残るのみである。
伝承によれば、神亀5年(728年)、鳥見郷の小野真弓長弓(おののまゆみたけゆみ)という人物が聖武天皇に随行して狩りに出た。
同行していた長弓の息子・長麻呂が不思議な鳥が飛び立つのを見て矢を放ったところ、矢は誤って長弓に当たり、彼は死んでしまった。
不運な長弓父子を哀れんだ聖武は僧・行基に命じて一寺を建立させた。
行基は十一面観音像を安置してこれを本尊とした。
十一面観音像の頭頂には仏面が乗っているが、これは聖武の弓を刻んだものだという。
なお「鳥見(登美)」は、長弓寺の位置する生駒山東麓を指す古い地名で、神武天皇東征神話にも登場する。
現在の奈良市西部から生駒市にあたる。
その後、桓武天皇(737年-806年)の時代に藤原良継(716年-777年)が再興したというが、桓武の即位は良継没後の781年であるので時代的に合わない。
別の伝承では平安時代初期に藤原緒継(774年-843年)によって創建されたともいう。
以後、中世までの沿革はあまりはっきりしていないが、現在の本堂は棟木銘から弘安2年(1279年)の建立であることが明らかである。
真言律宗の祖・叡尊(1201 - 1290)によって再興されたものである。
長弓寺の境内東側にある伊弉諾(いざなぎ)神社は、明治の神仏分離以前は牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれる。
寺伝では聖武天皇が長弓寺の鎮守として建てさせたものという。
長弓寺の参道入口に鳥居が立つことからもうかがえるように、近世以前は神仏混交の信仰が行われていた。
境内
境内奥に国宝の本堂が建つ。
右側(東)には伊弉諾神社 (生駒市)、薬師院、左側(西)には円生院、法華院、宝光院がある。
長弓寺本寺には住職がなく、4つの塔頭が輪番制で本堂を護持している。
塔頭のうち薬師院、円生院、法華院は宿坊を営業し、精進料理を提供している。
本堂(国宝)
棟木銘から弘安2年(1279年)に建立されたとわかる。
入母屋造・檜皮葺の建物である。
和様を基調にしつつ扉(桟唐戸)・頭貫(かしらぬき)の木鼻(用材の端部に装飾彫刻を施す)の意匠などには大仏様を採り入れるなど鎌倉時代の新和様の典型的な建築といえる。
内部は柱間3間にわたる長大な虹梁(こうりょう)を架け、礼拝空間である外陣(げじん)を広く取っているのが特色である。
三重塔跡
長弓寺にはかつて鎌倉時代建立とされる三重塔があった。
再度の移転の末、現在は初層部分のみが東京都港区の高輪プリンスホテルに移築されている。
1934年の室戸台風で長弓寺は本堂の屋根が大破するなどの大きな被害を受けた。
寺では修理費用捻出のため、三重塔を売却することとなった。
なお、三重塔の二層・三層は早くに失われていた。
当時すでに初層のみが残っている状態であったらしい。
塔はいったん、ある実業家の所有となって鎌倉市に移築された後、1954年高輪プリンスホテル庭園内に移築され、「観音堂」と称されている。
同ホテルには他にもと長弓寺にあった門と鐘楼も移築されている。
真弓塚
寺の東方1kmほどのところにあり、真弓長弓の塚とも、聖武天皇の弓を埋めたところとも伝える(伝承では聖武天皇の弓の一部を使って、本尊十一面観音の頭上の仏面を刻んだとされている)。
文化財
国宝
本堂
重要文化財
木造十一面観音立像
本堂の本尊として黒漆厨子に安置されている平安後期の一木造の像である。
目のつり上がった個性的な面貌や奥行きのある体躯などに古様が残る。
黒漆厨子
その他
木造十一面観音立像
松の一木から彫り出された鎌倉時代の像で、慶派仏師の流れをくむ康俊(こうしゅん)・康成(こうぜい)親子の作と考えられる。
アクセス
近畿日本鉄道白庭台駅より徒歩13分
近鉄富雄駅より奈良交通バス(高山方面行き)「生駒上町」下車、徒歩10分(本数は少ない)
近鉄学園前駅 (奈良県)より奈良交通バス(学研北生駒駅行き)「真弓4丁目」下車、徒歩15分