頂法寺 (Choho-ji Temple)
頂法寺(ちょうぼうじ)は、京都府京都市中京区にある天台宗系の単立寺院。
山号は紫雲山。
本尊は如意輪観音。
西国三十三箇所第十八番札所。
本堂が六角形であることから、六角堂の名で知られる。
歴史
寺伝によれば、794年(延暦13年)の平安遷都以前の創建です。
聖徳太子が四天王寺の建立のためその用材を求めてこの地を訪れた際、池で水浴中にそばの木にかけておいた持仏の如意輪観音が離れなくなりました。
夢告によりその観音がこの地にとどまり衆生済度を希望したので、その観音像を現在地に安置して六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりという。
「元亨釈書」によれば、平安京造営の際、堂宇が街路の中央にあたり邪魔になったが、黒雲が現れて北方へ約5丈運んだとある。
しかし、1976年(昭和51年)に平安時代中期創建説が出されている。
平安時代には、既に太子信仰と如意輪観音の霊験で知られ、貴賎男女の参篭が続き、洛陽七観音の一つとして栄えた。
鎌倉時代初期の1201年(建仁元年)、比叡山の堂僧であった29歳の親鸞が、毎夜叡山を下り、この六角堂に百日間参籠し、95日目の暁の夢中に聖徳太子の四句の偈文を得て、浄土宗の祖法然の専修念仏門に帰依した話は有名である。
境内右手奥にある親鸞堂には、夢告を授かる姿の「夢想之像」と六角堂参篭の姿を自刻したとされる「草鞋の御影」が安置される。
また、親鸞堂の正面には、参籠から叡山に戻られる姿の銅像が建つ。
また、六角堂においての親鸞の尊称は、真宗各派が用いる「聖人」では無く、「親鸞上人」と記されている。
室町時代の1461年(寛正2年)山城国大飢饉のとき、8代将軍足利義政は、この堂の前に救済小屋を建て、時宗の僧願阿に京都市街に流入した貧窮者に対し、粥施行(かゆせぎょう)などを命じた。
寺地が下京の中心であったことから、特に応仁の乱の後からこの寺は町堂として町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たした。
下京に危機がせまると、この寺の早鐘が鳴らされたりもしている。
また、京都に乱入する土一揆や天文法華の乱などでは出陣する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしている。
近世には、「京都御役所向大概覚書」によると、朱印寺領1石と記されており、寺内に多聞院、不動院、住心院、愛染院などがあったが現存しない。
観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、近世に門前町が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅宿町として発展した。
本堂東側の要石(かなめいし)は、旧本堂の礎石と伝えられ「へそ石」とよばれ、下京の中心地であるといわれている。
この寺は、1125年(天治2年)の火災をはじめ、江戸時代末までの間に確認できるだけで18回の災害にあったが、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興されてきた。
現在の本堂は、1875年(明治8年)に再建されたものである。
池坊(いけのぼう)
この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭(たっちゅう)で、頂法寺の本坊にあたる池坊(いけのぼう)が執行として代々経営・管理に当たってきた。
池坊の名は、聖徳太子が水浴したという池(又は井戸)にちなんでなづけられたものである。
池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供えることとなっており、花の生け方に別格の妙技を見せることで評判となっていたことが15世紀の記録に残されている。
文明 (日本)年間(1469年-1486年)に池坊12世専慶が立花(たてばな)の名手として知られ、ここから池坊としての立花が生じました。
天文 (元号)年間(1532年-1555年)には、池坊13世専応が度々宮中に招かれて花を立て、また「池坊専応口伝」を表して立花の理論と技術を初めて総合的に体系化した。
六角堂の名は、本堂の平面が六角形であるために呼ばれるようになった。
へそ石
この寺にある「へそ石」は、京都の中心と言われている。
この「へそ石」も六角形になっている。
文化財
木造毘沙門天立像 - 平安時代後期。
像高102cm。
隣の札所
西国三十三箇所
17 六波羅蜜寺 -- 18 頂法寺 -- 19 行願寺