上御霊神社 (Kami-goryo-jinja Shrine)
上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)は、京都市上京区にある神社である。
旧社格は府社。
上御霊神社という社名は下御霊神社に対応するもので、現在は宗教法人としての正式名を「御靈神社」としている。
祭神
現在の祭神は以下の八柱で、「八所御霊」と称される。
崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上内親王(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫神(藤原広嗣)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文室宮田麻呂)
火雷神(以上六柱の荒魂。菅原道真とも)
吉備大臣(吉備真備。吉備聖霊ともいう)
八所御霊の内容については諸説あり、上記のほか伊予親王(桓武天皇の御子)、藤原夫人(伊予親王の母、藤原吉子)、観察使(藤原仲成か)とされることもある。
相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。
これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。
歴史
桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。
これは御霊信仰の祟りであるとして、貞観 (日本)5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。
この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。
この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。
現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。
朝廷の篤い崇敬を受け、至徳 (日本)元年には正一位の神階を授けられた。
室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた。
御霊合戦は翌年勃発の応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
なお、延喜式神名帳に記載される出雲井於神社(式内大社)や出雲高野神社(式内小社)を当社に比定する説もあるが、継続性は不詳であり、神社側の由諸ではこれらの式内社について言及していない。
祭事
例祭の御霊祭は明治までは8月18日 (旧暦)に行われていたが、現在では5月18日(新暦)に行われている。
御霊祭は京都(洛中)で最も古い祭りと言われる。
交通
最寄駅 : 京都市営地下鉄烏丸線鞍馬口駅下車、徒歩3分