仁和寺 (Ninna-ji Temple)
仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室(おむろ)にある真言宗御室派総本山の寺院である。
山号を大内山と称する。
正式名称を旧御室御所跡仁和寺という。
本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。
皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」(おむろごしょ)の別名がついた。
御室は桜の名所としても知られ、春の桜と秋の紅葉の時期は多くの参拝者でにぎわう。
また、徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名である。
“古都京都の文化財”の一部として、世界遺産に登録されている。
今日でも国内や外国人の参拝客・観光客の多く訪れる史跡であり、旧御室御所にて茶の湯を振舞う(有料)茶室も用意されている。
起源と歴史
仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年崩御した。
遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888年)に落成し、「西山御願寺」と称されたが、やがて年号をとって仁和寺と号した。
宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、当寺には「御室(仁和寺)御所」の別称がある。
なお、「御室」の旧地には現在、「仁和寺御殿」と称される御所風の建築群が建つ。
御所跡地が国の史跡に指定されている。
仁和寺はその後も皇族や貴族の保護を受け、明治時代に至るまで、皇子や皇族が歴代の門跡(住職)を務め、門跡寺院の筆頭として仏教各宗を統括していた。
室町時代にはやや衰退し、応仁の乱(1467年-1477年)で伽藍は全焼した。
近世になって、寛永年間(1624年-1644年)、江戸幕府により伽藍が整備された。
また、寛永年間の皇居建て替えに伴い、旧皇居の紫宸殿、清涼殿、常御殿などが仁和寺に下賜され、境内に移築されている(現在の金堂は旧紫宸殿)。
伽藍
金堂(国宝)-慶長18年(1613年)に建立された旧皇居の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624年-1644年)に移築・改造したもので、近世の寝殿造遺構として貴重である。
宮殿から仏堂への用途変更に伴い、屋根を檜皮葺きから瓦葺きに変えるなどの改造が行われているが、宮殿建築の雰囲気をよく残している。
御影堂(重文)-旧皇居の清涼殿の用材を用いて建設したもの。
宗祖空海を祀る。
仁和寺御殿-仁王門から中門に至る参道の西側に位置する仁和寺の本坊で、宇多法皇の御所があった辺りに建つ。
宸殿は近世初期の皇居・常御殿を移築したものであったが、1887年(明治20年)に焼失。
現在の建物は明治時代末~大正時代初期に亀岡末吉の設計により再建されたものだが、庭園とともにかつての宮殿風の雰囲気をただよわせている。
遼廓亭(重文)-江戸時代の画家・尾形光琳の屋敷から移築されたもので、葺下し屋根の下に袖壁を付け、その中ににじり口を開いているのが珍しい。
飛濤亭(重文)-江戸時代末期に光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席で、腰をかがめずに入れるように鴨居の高い貴人口が設けられている。
その他、五重塔、経蔵、九所明神社本殿、御影堂中門、観音堂、鐘楼、仁王門、中門、本坊表門(以上重文)などがあり、大部分は徳川家光の寄進で寛永年間に整備されたものである。
国宝
金堂
木造阿弥陀三尊像-もと金堂に安置され、現在は寺内の霊宝館に移されている。
仁和4年(888年)創建時の本尊といわれる。
木造薬師如来坐像-本坊北側にある霊明殿(仁和寺の歴代門跡の位牌をまつる堂)の本尊。
1986年、京都国立博物館の調査で初めて概要が明らかになり、1990年、国宝に指定された。
康和5年(1103年)、白河天皇の皇子・覚行法親王の発願により仏師円勢と長円が造像したものである。
本体の像高11センチ、光背と台座を含めても24センチほどのビャクダン(白檀)材の小像で、光背には七仏薬師像と日光・月光菩薩、台座には前後左右各面に3体ずつの十二神将を表わす入念な作である。
孔雀明王像(絵画)-中国北宋時代の仏画。
宝相華蒔絵宝珠箱(ほうそうげ まきえ ほうじゅばこ)-平安時代前期の漆工芸品。
蒔絵の初期の遺品として貴重。
三十帖冊子・宝相華迦陵頻伽蒔絵ソク冊子箱(ソク=土へんに「塞」)(ほうそうげ かりょうびんが まきえ そく さっしばこ)-「三十帖冊子」は、空海が唐から持ち帰った写経の小冊子(サイズは縦横とも十数センチ)30冊で、一部に空海自筆を含む。
古来、真言宗の重宝として尊重されている。
付属の箱は朝廷から下賜されたもので、平安時代の漆工芸品として貴重である。
御室相承記-仁和寺の歴代法親王の記録。
鎌倉時代。
高倉天皇宸翰消息-「宸翰」(しんかん)は天皇の直筆、「消息」は手紙の意。
若くして死去した高倉天皇の18歳の筆で、同天皇の現存唯一の遺筆。
後嵯峨天皇宸翰消息-後嵯峨天皇の確証ある遺筆としては唯一のもの。
黄帝内経明堂2巻・黄帝内経太素24巻-中国の医学書『黄帝内経』(こうていないけい)の注釈書。
「明堂」は鎌倉~南北朝時代、「太素」は平安時代の写本。
医心方-日本最古の医学書『医心方』の平安時代後期の写本。
新修本草-唐時代の薬草に関する本『新修本草』の鎌倉時代の写本。
重要文化財
(建造物)
「仁和寺」14棟(五重塔、観音堂、中門、二王門、鐘楼、経蔵、御影堂、御影堂中門、九所明神社本殿3棟、本坊表門、遼廓亭、飛濤亭)
(絵画)
絹本著色聖徳太子像
絹本著色僧形八幡神影向図
紙本白描及著色密教図像 17点
紙本墨画高僧像 1巻
紙本墨画四天王図像 1巻
紙本墨画弥勒菩薩画像集 1帖
紙本墨画薬師十二神将像 1巻
紙本墨画別尊雑記(図像入)57巻
(彫刻)
厨子入木造愛染明王坐像
木造吉祥天立像
木造悉達太子坐像(注)
木造増長天・多聞天立像
木造文殊菩薩坐像
(注)当初「木造聖徳太子坐像」として指定。
1991年に現名称に変更。
(工芸品)
住吉蒔絵机
色絵瓔珞文花生 仁清作
銅製舎利塔・五鈷鈴・三鈷鈴・九頭竜鈴・五鈷杵
日月蒔絵硯箱
宝珠羯磨文錦横被
(書跡典籍)
絹本墨書尊勝陀羅尼梵字経(伝不空三蔵筆)
紺紙金泥薬師経 光格天皇宸翰、済仁親王書継
孔雀経 巻中下
十地経並十力経・廻向輪経
法華玄義 巻第二、第八
如意輪儀軌
般若経理趣品
理趣釈 淳祐筆
仁和寺黒塗手箱聖教 65巻、3冊、138帖、32通、16鋪、28枚
淡紫紙金泥般若心経 桜町天皇宸翰
秘密曼荼羅十住心論(巻第六補写)10帖
摧邪輪 2帖1冊
万葉集注釈 9冊
後鳥羽天皇作無常講式
後宇多天皇宸翰消息(五月十一日 御法号)
後宇多天皇宸翰消息(徳治二年九月廿日)
後醍醐天皇宸翰消息(何事候哉云々)
後醍醐天皇宸翰消息(去夜心閑云々)
孔雀明王同経壇具等相承起請文
承久三、四年日次記残闕
消息(高野御室消息 1通、華蔵院宮法印消息 1通、返事案 2通)
貞観寺根本目録(貞観十四年三月九日)
法勝院領田地公験紛失状(安和二年七月八日)
(考古資料、歴史資料)
仁和寺境内出土品 一括
日本図
御室八十八ヶ所霊場
1827年(文政10年)に、仁和寺第29世門跡であった不壊身院御室・済仁法親王が、四国八十八箇所を巡拝が出来ない人々のために発願し、仁和寺寺侍・久富遠江守に命じて、四国八十八箇所を巡拝して、各札所の砂を持ち帰らせた。
仁和寺境内の成就山に四国八十八箇所を模して、同じ数の88宇の堂を設けて、持ち帰った砂を設けた堂に埋めたことが起源とされる。
成就山に四国八十八箇所霊場を小規模に再現した巡礼地である。
各札所にあたる小規模な堂が約3kmの山道沿いに点在する。
88宇の堂には実際の四国八十八箇所の札所の寺院と同じ本尊と弘法大師を祀ってある。
成就山八十八ヶ所とも称される。
また、かつては「御室 仁和寺 成就山88ヵ所スタンプハイク」が仁和寺主催で年6回行われていた。
御室桜
仁和寺の桜には特に「御室桜(おむろざくら)」の名が付いている。
約200本あり、八重咲き。
樹高が低いのは、この地の岩盤が固く、深く根を張れないためという。
「花(鼻)が低い」ということから「お多福桜」ともいう。
満開は例年4月20日過ぎと遅く、桜の名所の多い京都で季節の最後を飾る。
仁和寺を舞台にした映画
「名探偵コナン 迷宮の十字路」
アクセス
京都市営バス、京都バス、西日本ジェイアールバス「御室仁和寺」下車すぐ。
京福電気鉄道御室仁和寺駅下車徒歩5分。
普段は境内への入場は無料であり、御殿・霊宝館の拝観のみ有料となる。
ただし、御室桜の開花時(4月)に「さくらまつり」が行われ、その期間は、境内への入場にも拝観料が必要となる。
参考文献
井上靖、塚本善隆監修、山本健吉、森諦円著『古寺巡礼京都11 仁和寺』、淡交社、1977
竹村俊則『昭和京都名所図会 洛西』駸々堂、1983
『週刊朝日百科 日本の国宝』14号(仁和寺)、朝日新聞社、1997
『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
『国史大辞典』、吉川弘文館