多坐弥志理都比古神社 (Onimasumishiritsuhiko-jinja Shrine)

多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)は、奈良県磯城郡田原本町にある神社である。
式内社で、旧社格は県社。
一般には多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、多社、多坐神社、太社、意富社とも書かれる。

祭神
以下の4座の神を主祭神とする。

第二社 神八井耳命
第三社 神泥川耳命
(綏靖天皇。神八井耳命の弟)

第一社 神倭磐余彦尊
(神武天皇。神八井耳命の父)

第四社 姫御神
(タマヨリビメ。神八井耳命の祖母)

当地は多氏の拠点であり、祖神として神八井耳命を祀ったものとみられる。

延喜式神名帳には「大和国十市郡 多坐弥志理都比古神社二座」と記されている。

久安5年(1149年)に当社禰宜多朝臣常麻呂が国司に提出した『多神宮注進状』では以下の2座としている。
また、社名より水火知男女神(みひしりひこひめのかみ)が神名帳の2座であるとも書かれている。

珍子 賢津日霊神尊(うつのみこ さかつひこのみこと) 皇像瓊玉坐 河内国高安郡 春日戸社坐御子神社と同神
天祖 賢津日孁神尊(あまつおや さかつひめのみこと) 神物圓鏡坐 天照大神高座神社と同神

元文2年(1737年)の『多大明神社記』では現在の四座になっている。
明治時代の『神社明細帳』では本殿の第一社・第四社は摂社の扱いとなっており、主祭神は神八井耳命・神泥川耳命の二座としている。

社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、
これは神八井耳命のことである。
神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲った。
ここから「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。

古くは春日宮と称し、四方に鳥居があったという。
太陽信仰の聖地であったのか、方位を配慮した構造になっていた様である。

歴史
紀記神話には、「神八井耳命は皇位を弟に譲り、自らは神祇を祭る」とあり、
それが当社の始まりであるとしている。
綏靖天皇2年、神八井耳命は春日県(後の十市県)に邸宅を造り、そこに神籬磐境を立てて自ら神祇を祀った。
崇神天皇7年、その神祠を改造し、天津日瓊玉命・天璽鏡劔神を祈賽したと伝える。

延喜式神名帳では「大和国十市郡 多坐弥志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列し、月次祭・相嘗祭・新嘗祭の幣帛に預ると記されている。
永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では神階正一位となっている。

明治時代に郷社に列格し、大正12年(1923年)県社に昇格した。

施設
本殿は春日造で4棟ある。
本殿の後方に「神武塚」と呼ばれる小丘があり、古代の祭祀場もしくは古墳と考えられている。

境内社として熊野神社・住吉神社・春日神社・石上神社・竈神社・八幡神社がある。

境外摂社として以下の神社があり、どれも式内社である。
『五郡神社記』では本社二座と下記の四皇子神をもって「意富六所神社」と称している。

小杜神社(祭神 太安万侶) 式内小社・小社神命神社
皇子神命神社(祭神 皇子神命)式内小社・皇子神命神社(論社)
姫皇子命神社(祭神 姫皇子命)式内小社・姫皇子命神社(論社)
屋就神命神社(祭神 屋就神) 式内小社・屋就神命神社

昭和47年、当社裏の飛鳥川築堤工事中、境内より縄文時代から古墳時代の遺跡が発見された。

祭礼
祭礼は4月第三日曜日で、大連座(大和で祭りのことをレンゾと言う)と呼ばれる。
旧暦使用の時代では春分の頃、祭礼を行っていたという。

[English Translation]