朝護孫子寺 (Chogosonshi-ji Temple)
朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)は、奈良県生駒郡平群町(へぐりちょう)の信貴山にある信貴山真言宗総本山の寺院である。
本尊は毘沙門天(多聞天とも称する)。
「信貴山寺」とも称し、一般には「信貴山の毘沙門さん」として知られる。
毎年初詣時期には多くの参拝客でにぎわう。
大和七福神(朝護孫子寺、久米寺、子嶋寺、小房観音寺、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)のひとつにも数えられる。
歴史
朝護孫子寺は、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境にそびえる生駒山地の南端に近い、奈良県側の信貴山の山腹に位置する。
創建の時期や経緯については判然としない。
寺に伝わる国宝『信貴山縁起』は、平安時代後期、12世紀の成立とされ、日本の絵巻物の代表作とされている。
この絵巻は通常の社寺縁起絵とは異なって、朝護孫子寺の創建の経緯等については何も述べておらず、信貴山で修行していた命蓮(みょうれん)という聖(ひじり)の奇跡譚が中心主題となっている。
絵巻の中巻では延喜の帝(醍醐天皇)の病を命蓮が法力で治したという話が語られている。
『信貴山縁起絵巻』の詞書とほぼ同様の説話が『宇治拾遺物語』にあり、『今昔物語』にも信貴山寺の草創に関する説話が収録されている。
(聖の名は『宇治拾遺物語』には「もうれん」、『今昔物語』には「明練」とある。)
平安時代末期に成立した歴史書『扶桑略記』の延長8年(930年)8月19日条には、「河内国志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが見える。
なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっている。
なお、信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県であるが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されている。
以上のことから、醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯される。
当寺の創建について、聖徳太子を開基とする伝承もあるが、これは太子が物部守屋討伐の戦勝祈願をした際に、自ら四天王の像を刻んだという伝承に因んだ後世の付託と思われる。
伝承では、寅の年、寅の日、寅の刻に四天王の一である毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、その加護によって物部氏に勝利したことから、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。
このことから、594年(推古2年)に毘沙門天を祀る寺院を創建し、「信ずべき貴ぶべき山(信貴山)」と名付けたとする。
また寺の至る所に虎の張り子が置かれているのは、その逸話に由来している。
その後、902年(延喜2年)に醍醐天皇が、「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺としたことから、「朝護孫子寺」の勅号を賜った。
戦国時代には木沢長政が信貴山頂に信貴山城を築いた。
1577年(天正5年)に同城の城主・松永久秀と織田信長の間で信貴山攻防戦が行われて久秀は滅亡し、寺も消失するが、豊臣秀頼によって再建された。
現在、山頂には同寺の「空鉢堂」があり、本堂付近から参道で連絡している。
建造物
本堂
昭和33年(1958年)に復興された朱塗りの欄干をもつ舞台造りの建物。
昭和26年(1951年)に焼失した旧本堂は豊臣秀頼の本願により片桐且元を奉行として再建されたものだった。
三重塔
多宝塔
国宝
紙本著色信貴山縁起絵巻
平安中期に信貴山で修行した命蓮上人に関する説話を描く。
山崎長者の巻、延喜加持の巻、尼公の巻の3巻からなる絵巻である。
作者は不明ながら、人物の表情や躍動感を軽妙な筆致で描いた絵巻の一大傑作である。
(原本は奈良国立博物館に寄託、霊宝館では複製を展示している)
重要文化財
金銅鉢 延長7年銘
武器類 兜、袖、喉輪
奈良県指定文化財
銅造毘沙門天立像-平安時代後期、西域に起源を持ついわゆる兜抜昆沙門天の特徴を備える。
その他
戦勝祈願の故事、毘沙門天を本尊とし、虎を守り神とすることから、阪神タイガースの選手が必勝祈願に訪れる。
公共交通機関の場合
JR大和路線「王寺駅」で近鉄生駒線乗り換え「信貴山下駅」より奈良交通バス信貴山行き終点下車
近鉄大阪線「河内山本駅」から近鉄信貴線で、「信貴山口駅」にて近鉄西信貴鋼索線に乗り換え、「高安山駅」より近鉄バスに乗り換え、信貴山門下車
自家用車の場合
阪奈道路の生駒登山口から信貴生駒スカイラインにて。
柏原市道信貴大県線: 国道170号(旧道)の大県南交差点(柏原市)を東へ、高尾山 (大阪府)頂、信貴山のどか村付近を経て信貴山門付近に至る。
奈良県道236号信貴山線にて。
大阪府道183号本堂高井田線にて。
駐車料金500円(乗用車/1日1回)