興福寺 (Kofuku-ji Temple)
興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の寺院である。
南都七大寺の一つに数えられる。
藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺である。
古代から中世にかけて強大な勢力を誇り、鎌倉・室町両幕府は大和国に守護を置くことができなかった。
南円堂は西国三十三箇所第9番札所である。
「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
歴史
創建
藤原氏の祖である藤原鎌足(614年 - 669年)夫人の鏡王女(かがみのおおきみ)が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国(山城国)山階(京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。
壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名(高市郡厩坂)をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子息である藤原不比等(659年-720年)は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し、「興福寺」と名付けた。
この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。
中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。
不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
南都北嶺
興福寺は奈良時代には四大寺、平安時代には南都七大寺の一つに数えられ、特に摂家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。
平安時代には春日社の実権をもち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。
その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」(なんとほくれい)と称された。
寺の周辺には塔頭と称する多くの付属寺院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。
中でも天禄元年(970年)定昭の創立した一乗院と寛治元年(1087年)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた。
鎌倉時代・室町時代の武士の時代になっても僧兵等を擁し強大な力を持っていたため、幕府は大和国に守護を置けなかった。
よって大和国は実質的に興福寺の支配下にあり続けた。
安土・桃山時代に至って織豊政権に屈し、文禄4年(1595年)の検地では、春日社興福寺合体の知行として2万1000余石とされた。
平重衡の兵火による焼失
興福寺は、創建以来たびたび火災に見まわれたが、その都度再建を繰り返してきた。
中でも治承4年(1180年)、源平の争いの最中、平重衡の兵火による被害は甚大であった(南都焼討)。
東大寺とともに大半の伽藍が焼失した。
この時、興福寺再興に奔走したのは回禄直後に別当職に就いた信円と解脱上人貞慶であった。
現存の興福寺の建物はすべてこの火災以後のものである。
なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。
興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災の時は、時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいであった。
廃仏毀釈による破壊
明治元年(1868年)に出された神仏分離令は、全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし、春日社と一体の信仰が行われていた興福寺は直接打撃をこうむった。
子院はすべて廃止、寺領は没収され、僧は春日社の神職となり、境内は塀が取り払われ、樹木が植えられて、奈良公園の一部となってしまった。
一時は廃寺同然となり、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末だった。
それにさきがけ、興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていた。
行き過ぎた廃仏政策が反省されだした1881年(明治14年)、ようやく興福寺の再興が許可された。
1897年(明治30年)、文化財保護法の前身である「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、徐々に寺観が整備されて現代に至っている。
しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態、「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡である。
門跡
一乗院宮
塔頭の筆頭である一乗院は、はじめ近衛家流(近衛家と鷹司家)の子弟が門主をつとめる摂家門跡であったが、江戸初期以降は皇族が門主をつとめる宮門跡となった(幕末には再び近衛家の子弟が門跡となる)。
諸大夫とよばれる一乗院宮家専属の家司(家来)もおり、宮家とよんでも差し支えのないものであった。
また邸宅は奈良だけではなく、京都今出川の桂宮邸と御所の間に「南都一乗院宮御里房」とよばれる京屋敷を持っていた。
一乗院宮家歴代
尊覚親王・・・後陽成天皇皇子
真敬親王・・・後水尾天皇皇子
尊賞親王・・・霊元天皇皇子
尊映親王・・・京極宮家仁親王王子
尊誠親王・・・伏見宮貞敬親王王子
尊常親王・・・伏見宮貞敬親王王子
一乗院門跡
応昭・・・近衛忠煕の子で最後の一乗院門跡
大乗院門跡
九条家流(九条家、二条家、一条家)の子弟が歴代の門主をつとめた。
隆芳・・・九条尚忠の子で最後の大乗院門跡
興福寺の最高役職である興福寺別当は、一条院主と大乗院主が交互に就く習わしだった。
伽藍と文化財
かつての興福寺には中金堂(ちゅうこんどう)、東金堂(とうこんどう)、西金堂(さいこんどう)の3つの金堂があり、それぞれに多くの仏像が安置されていた。
寺の中心部には南から北に南大門、中門、中金堂、講堂が一直線に並び、境内東側には南から五重塔、東金堂、食堂(じきどう)が、境内西側には南から南円堂、西金堂、北円堂が建っていた。
この他、境内南西隅の一段低い土地に三重塔が、境内南東部には大湯屋がそれぞれ建てられた。
これらの堂宇は、創建以来たびたび火災に見舞われ、焼失と再建を繰り返してきた。
明治期以降、興福寺の境内は奈良公園の一部と化し、寺域を区切っていた塀や南大門もなくなり、天平時代の整然とした伽藍配置を想像することは困難になっている。
中金堂
中金堂は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。
のちに東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれている。
創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、篤志家の寄付によってようやく再建された。
この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り小さかったが、興福寺国宝館の開館(1959年)までは、高さ5.2メートルの千手観音像をはじめ、多くの仏像を堂内に安置していた。
また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。
あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きであるものの安価なマツ材が使用されており、経年による雨漏りがひどくなり1974年に中金堂裏側に仮金堂(奈良・薬師寺の旧金堂を移築したもの)が建てられ、本尊などはそちらに移された。
文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年に解体されている。
なお、創建1,300年の2010年完成をめざし、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内の整備が進められている。
仮金堂内には興福寺の本尊である釈迦如来坐像(江戸時代の再興)のほか、以下の諸仏を安置する。
木造薬王菩薩・薬上菩薩立像(重文)-像高3.6メートルの巨像。
現在は中金堂本尊釈迦如来像の両脇に安置されるが、本来は廃絶した西金堂本尊・釈迦如来像の脇侍として、鎌倉時代の建仁2年(1202年)造立されたもの。
木造四天王立像(重文)-もと南円堂にあったもの。
鎌倉時代、運慶の父・康慶一門の作。
東金堂
東金堂(国宝)は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建した。
治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊の薬師三尊像を強奪してきて、東金堂本尊に据えた。
東金堂はその後応永18年(1411年)に五重塔とともに焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建である。
室町時代の建築であるが、規模、形式ともに天平時代の堂に準じている。
堂内には以下の諸仏を安置する。
銅造薬師三尊像(重文)-中尊は応永18年(1411年)の火災後の再興像で室町時代の作。
脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は応永の火災の際に救出されたもので、奈良時代の作である。
木造維摩居士(ゆいまこじ)坐像(国宝)-本尊薬師如来の向かって左に安置。
鎌倉時代、建久7年(1196年)、定慶(じょうけい)の作。
維摩は仏教経典に登場する伝説上の人物であるが、実在の老人のようにリアルに表現されている。
木造文殊菩薩坐像(国宝)-本尊薬師如来の向かって右に安置され、上記維摩居士像と対を成す。
作者は不明だが、維摩像と同じ頃、定慶の手になるものと推定される。
「維摩経」に説かれる文殊と維摩の問答の場面を表現したものである。
木造四天王立像(国宝)-堂内四隅に安置。
堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。
木造十二神将立像(国宝)-薬師如来を守護する12の眷属の像。
鎌倉時代、建永2年(1207年)頃の作。
各像のダイナミックな姿勢と12体の個性を彫り分けた群像表現が見所である。
五重塔
五重塔(国宝)は天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。
現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建である。
高さ50.8メートルで、木造塔としては東寺五重塔に次ぎ、日本で2番目に高い。
北円堂
北円堂(国宝)は養老5年(721年)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇、元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させたもの。
現在の建物は承元2年(1208年)頃の再建で、興福寺に現存している建物の中では最も古い建物になる。
法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。
木造弥勒仏坐像(国宝)-晩年の運慶が一門の仏師を率いて建暦2年(1212年)頃に完成したもの。
木造法苑林菩薩・大妙相菩薩半跏像-弥勒仏の脇侍像だが、制作年代は室町時代に下る。
木造無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)-無著・世親の兄弟は5世紀頃のインドで活動した唯識教学の祖で、興福寺が属する法相宗では尊ばれている。
本尊弥勒像と同じ頃、運慶一門の作。
鎌倉時代のリアリズム彫刻の頂点をなす作品、日本の肖像彫刻の最高傑作の1つとして高い評価を得ている。
木心乾漆四天王立像(国宝)-他の諸仏より古く平安時代ごく初期の像である。
弘安8年(1285年)の修理銘によると、本来は大安寺のもので、延暦10年(791年)に造立されたという。
南円堂
南円堂(重文)は弘仁4年(813年)、藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂追善のため創建した。
現在の建物は寛政元年(1789年)の再建である。
創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。
この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。
堂は西国三十三箇所の九番札所として参詣人が絶えないが、堂の扉は常時閉ざされており、開扉は10月17日の大般若経転読会という行事の日のみである(2002年秋、2008年秋に特別開扉が行われた)。
木造不空羂索観音坐像(国宝)-運慶の父である康慶一門の作で、文治5年(1189年)に完成。
坐像で高さ336センチの巨像である。
木造四天王立像(国宝)-鎌倉時代の作。
この四天王像は南円堂本尊の不空羂索観音像と同様、運慶の父・康慶一門の作であると長らく信じられていたが、20世紀後半の研究の進展により、現在中金堂(仮金堂)に安置されている四天王像が、もと南円堂にあった康慶作の像であり、現・南円堂の四天王像は他の堂から移されたものであることが明らかになっている。
三重塔
康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建された。
現在の塔は治承4年(1180年)の大火後まもなく再建された鎌倉建築である。
西金堂跡
天平6年(734年)、光明皇后が母・橘三千代の一周忌に際し、釈迦三尊を安置する堂として創建した。
江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は現在まで再建されていない。
大湯屋
五重塔の東方に建つ。
五重塔と同じく応永33年(1426年)頃の再建。
菩提院大御堂
五重塔の南、三条通りを渡ったところに建つ、興福寺の子院である。
現在の堂は天正8年(1580年)の再建で、本尊阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。
本坊
境内東方に位置する。
一般には公開されていない。
木造聖観音立像(重文) - 本坊持仏堂(大圓堂)本尊。
鎌倉時代の作。
一般には公開されていないが、1997年東京国立博物館で開催された「興福寺国宝展」で初めて公開されたほか、2007年10月20日 - 11月25日に寺内で初めて公開。
寺伝では聖観音像とされているが、像内納入文書によれば、本来は弥勒菩薩像として、建長5年(1253年)に仏師快円によって作られたものである。
国宝館
国宝館は旧・食堂(じきどう)の跡地に建てられた文化財収蔵・展示施設で、1959年に完成した。
鉄筋コンクリート造だが、外観は旧・食堂を模した寺院建築風である。
食堂は1874年(明治7年)、廃仏毀釈のあおりで興福寺が荒廃していた時代に取り壊されている。
内部にはもと食堂本尊の千手観音の巨像(高さ5.2メートル)が中央に安置され、仏像をはじめとする多くの寺宝が展示されている。
乾漆八部衆立像(国宝)-奈良時代の作。
もと西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。
五部浄、沙羯羅(さから、しゃがら)、鳩槃荼(くはんだ)、乾闥婆、阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。
中でも三面六臂(手が6本)の阿修羅像が著名である。
緊那羅像は奈良国立博物館に寄託。
乾漆十大弟子立像(国宝)-奈良時代の作。
八部衆像とともに、西金堂本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つである。
当然ながら制作当初は10体の群像であったが、4体は失われ、舎利弗(しゃりほつ)、目犍連(もくけんれん)、須菩提(すぼだい)、富楼那(ふるな)、迦旋延(かせんえん)、羅睺羅(らごら)の6体のみが現存する。
舎利弗、目犍連は奈良国立博物館に寄託。
銅造仏頭(国宝)-奈良時代の作で、頭部のみ残っているが、白鳳文化を代表する作品。
旧山田寺仏頭とも。
元来、飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂本尊薬師三尊像の中尊像の頭部で(前記)、東金堂にあったが、室町時代の火災で頭部だけがかろうじて焼け残った。
この頭部は新しく作った本尊像の台座内に納められて長らく人目にふれず、1937年(昭和12年)に再発見された。
この時には他に、珍しい銀製の仏像の腕(重文)も発見されている。
木造仏頭(重文)-廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。
鎌倉時代。
頭部のほかに両手の一部、光背を飾っていた飛天像と化仏(けぶつ、小型の仏像)も残っている。
従来、運慶の兄弟子・成朝の作とされていたが、近年、興福寺別当(住職)信円の日記の記述から、文治2年(1186年)正月に運慶によって作られたとする説が有力となっている。
木造金剛力士立像(国宝)-もと西金堂安置。
鎌倉時代。
木造天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝)-もと西金堂安置。
大きな燈篭を、天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。
架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した、鎌倉期彫刻の傑作である。
龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215年)の作で、天燈鬼も同人か周辺の仏師の作と思われる。
木造法相六祖坐像(国宝)-運慶の父・康慶一門の作。
玄賓(げんぴん)、行賀、玄ボウ(げんぼう)、神叡、常騰、善珠という、法相宗の6名の高僧の肖像。
南円堂の本尊の周囲に安置されていた。
行賀像は奈良国立博物館に寄託。
木造千手観音立像(国宝)-もと食堂(じきどう)本尊。
現在は、食堂跡地に建つ国宝館の中央に安置される。
高さ5.2メートルの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229年)頃の完成と推定される。
この千手観音像は記録によると造像開始から完成まで4半世紀の歳月を要した。
当初の造像担当者であった成朝は運慶の父康慶の兄弟子にあたり、康慶よりも正当な慶派の後継者であった。
しかし成朝は病弱であったため千手観音像の制作途中で亡くなったと推定されている。
その後放置されていたものが何らかの理由で制作が再開され、別の仏師の手により完成された。
像の部材は制作が中止されている間風雨に晒されていたらしく、内部の木肌は酷く痛んだ状態であった。
板彫十二神将像(国宝)-平安時代の作。
日本では珍しい、板に浮き彫りにした仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。
12面完存している。
金銅燈籠(国宝)-南円堂前に立っていた銅製の燈籠で、現在は国宝館に展示されている。
平安時代初期の弘仁7年(816年)の銘があり、紀年銘のある燈籠としては日本最古のものである。
火袋の文字は当代の書道史の遺品としても貴重。
梵鐘(国宝)-奈良時代、神亀4年(727年)の銘がある。
制作年の分かる梵鐘としては、妙心寺鐘(698年)に次いで、日本で二番目に古い。
文化財
現在の境内と合わせて奈良公園の一部にまたがる旧境内が国の史跡に指定されている。
アクセス
近鉄奈良線近鉄奈良駅下車徒歩7分
境内自由。
国宝館、東金堂は通年拝観可(有料)。
北円堂・仮金堂の内部は春・秋などに期日を限って公開。
南円堂開扉は10月17日のみ。