談山神社 (Tanzan-jinja Shrine)
談山神社(たんざんじんじゃ)は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社。
祭神は、藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。
サクラとカエデの名所である。
神仏分離以前は、寺院であり、多武峯寺という名称であった。
概要
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津国安威の地(参照:阿武山古墳)から大和国のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。
天武天皇9年(680年)に講堂(現在の神社建築)が創建され、そこを妙楽寺と号した。
大宝 (日本)元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の神社建築)が建立され、聖霊院と号した。
談山の名の由来は、藤原鎌足と天智天皇が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。
鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。
平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えなかった。
鎌倉時代から室町時代にかけてはたびたび領地などを巡り争論を繰り広げていた。
1585年(天正13)、豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。
1590年(天正18)年に、帰山を許された。
徳川家康により復興。
近世の朱印領は3000石余である。
1869年(明治2)に僧徒が還俗。
談山神社と改称された。
仏教伽藍は現代も談山神社境内に見ることができ、登拝者も後を絶たない。
明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているため、独特の雰囲気を残している。
談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に藤原鎌足の墓所といわれる陵がある。
談山神社から、少し歩いたところに藤原鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。
尚、拝殿や十三重塔は戦前に何度か日本銀行券の図案に採用された事がある。
国宝
粟原寺三重塔伏鉢(おうばらでらさんじゅうのとうふくばち)‐桜井市粟原(談山神社の北東方向)の山中に跡が残る粟原寺の遺物である。
「伏鉢」とは、三重塔、五重塔などの最上部に立つ「相輪」の部材の一つ。
銅製で、和銅8年(715年)の年号を含む刻銘がある。
中臣大島(なかとみのあそんおおしま)が草壁皇子のために発願したという粟原寺の由緒が書かれている。
「工芸品」ではなく「考古資料」の部の国宝に指定されている。
奈良国立博物館に寄託。