勾当内侍 (Koto no naishi)
勾当内侍(こうとうのないし)は、南北朝時代 (日本)の公家の女性である。
一条経尹、あるいは一条伊尹の娘、一条行房の娘、妹とも。
本名は不詳。
新田義貞の妻(正妻は安東氏の娘)とされるが、新田義貞との関係が記されているのは『太平記』においてのみであり、年代的な推定などから創作である可能性が非常に高い。
また、「勾当内侍」の実在すら疑わしいと言われている。
人物
鎌倉時代後期に後醍醐天皇の討幕運動に加わり、鎌倉陥落に功績のあった上野国の新田義貞の妻になったいわれ、建武の新政を開始した後醍醐天皇が新田義貞への恩賞として与えたとされる。
建武 (日本)3年(1336年)新田義貞は新政から離反した足利尊氏を楠木正成や北畠顕家らとともに京都で破り、足利尊氏らは九州へ逃れる。
建武政権が足利尊氏追撃を行わなかった理由は幾つか考えられているが、『太平記』では新田義貞は京都において勾当内侍との別れを惜しみ、出兵する時期を逃したとし、勾当内侍が結果的に義貞の滅亡の遠因を作った女性であるとする描き方がされている。
尊氏が上京して後醍醐天皇を追い、新田義貞は恒良親王らを奉じて北陸地方へ逃れ、足利軍の攻勢により1338年に越前国藤島で戦死するが、『太平記』においては、琵琶湖畔の今堅田において別れ、京にて悲しみの日々を送っていた勾当内侍は新田義貞に招かれ北陸へ向かうが、杣山(福井県南条町)において新田義貞の戦死を知り、獄門にかけられた新田義貞の首級を目にして落飾して比丘尼になったと描かれている。
また、勾当内侍の父とされる行房も新田義貞に従い、北陸で戦死していると記されている。
あるいは勾当内侍は琴が浜で入水したという伝説もある。
今堅田には、勾当内侍を祭神とする野上神社や菩提寺の泉福寺などがあり、慰霊のための野上祭も行われた。
また、江戸時代に講釈として『太平記』が流布すると、各地に勾当内侍の墓所が作られた。
なお、新田義貞が戦死した藤島近くの三国湊は、勾当内侍局の収入源の1つであった事も指摘されている。
また、墓は群馬県太田市尾島町(旧新田郡尾島町)にある。