番頭 (Banto)

番頭
歴史用語としての番頭については、下記参照。

2005年(平成17年)改正前商法43条(改正後の25条)に存在した法律用語。
ある種類又は特定事項の委任を受けた商業使用人を例示する用語として「番頭、手代」が使われていたが、平成17年改正により消滅した。

番頭(武家)
武家における番頭(ばんがしら・ばんとう)とは、主に江戸幕府にあっては大番頭と呼ばれ、平時は江戸城大手門をはじめ、江戸城の警備隊長として、また有時及び行軍に際しては幕府軍の備並びに騎馬隊指揮官(侍大将)として、番方(軍事部門)で最高の格式を誇った。
5000石以上の旗本または、1万石クラスの譜代大名から複数が任じられた。
大番頭配下の中間管理職は大番組頭と呼ばれた。

現代の先入観でみると、警備隊長・一指揮官にすぎない大番頭が、3000石級の旗本の任である町奉行や、大目付より格上なポストであることに違和感をおぼえる向きもあると思われるが、幕府はいわば軍事政権であるから、軍事・警備の責任者の地位が高かったのである。
その他、将軍の身辺警護の責任者である小姓組、将軍の居室をはじめとする城中の警備責任者である書院番(戦時は幕府直轄の二番手備指揮官)などがあった。

諸藩においても、番頭は、平時は警備部門の内で最高の地位にあるものを指し、戦時には備の指揮官となることが多い。
また、警備部門(番方)の家臣が、藩主に具申したいことがある場合、藩主に取り次ぎをすることもあった。
この職権を持つ家臣は、番頭ではなく侍頭・組頭と呼称される藩もあった。
組頭と番頭の二つの役職が存在する藩にあっては、どちらが格上かは一義的に断定はできないが、番頭のほうが格上なことが多い。
しかし、組頭が侍大将であり、騎馬組などの馬上の武士団を預けられている場合は、番頭より格上なこともある。

江戸時代中期の赤穂藩、浅野氏のように組頭の奥野定良(元禄赤穂事件のとき、数え55歳)が、父が家老であったとはいえ、並みの家老より格段に石高が多く、城代・筆頭家老の大石良雄の1500石に次ぐ、藩内二番目の1000石を給付されていた。
奥野将監については、番頭とする分限帳も存在するため、同藩では番頭と組頭は同じ意味で使用されていたものと思われる。

番頭の実質的な藩内の力を見極めるには、番頭の家禄・役高のほか、番頭が番方からの藩主に対する取次権や人事の具申権を持っているか否かが重要である。
番頭の諸藩における地位は、厳密にはまちまちであり、家老、年寄・中老に次ぐ重職であることもあれば、用人より格下のこともある。
しかし、藩内における番頭の序列に一定の傾向が存在することは明らかである。
小さな藩や職制が簡素な藩では、家老に次ぐ重臣が用人となる。
小藩では用人が家老の全般を補佐するので、番頭よりも用人の身分が高くなる。
他方、大きな藩では、家老と用人の中間に年寄・中老をはじめ、さまざまな家老を補佐する役職があるので、用人の役目は相対的に低くなり、特命事項や庶務的なものとなるので、用人は番頭より格下となることもある。
小さな藩では、番頭・留守居、及び公用人がおおむね同格の藩もあれば、番頭のほうが格上の藩もある。
番頭より江戸留守居役、公用人のほうが格上ということは少ない。
大きな藩では、江戸留守居役、及び公用人より番頭のほうが格上である。
番頭は、物頭(者頭)、給人より格上であることは諸藩に共通である。

幕府の役職に相当する小姓組番頭や書院番頭は、諸藩にあっては番頭よりやや格下であり、小姓組組頭・書院組頭と呼称されることが多く、小さな藩にあっては、番頭がこれらの役目を兼帯していた。
大雑把に言って、諸藩にあって番頭は「上の中クラス」以上の家格の者から選ばれている。
太平の世では、家柄が重んじられて任命された。

番頭(商家)
商家における番頭(ばんとう)とは、主に江戸時代、商家使用人の内で最高の地位にあるものを指す。

10歳前後で商店に丁稚(上方ことば)・小僧(江戸ことば)として住み込んで使い走りや雑役に従事し、手代を経て番頭となる。
商業経営のみならず、その家の家政にもあたっており、勤務時の着物も手代までと違い羽織を着用することが許された。
また、丁稚は勿論のこと手代までは住み込みを原則とする商家が多く、番頭になってようやく住み込みから解放され、通い(自宅通勤)が許されるといったケースが多かった。
結婚も番頭になるまでは許さないことが多かった。
番頭は、暖簾分けされて独立することもあったが、番頭を任されるまでには厳しい生存競争を勝ち抜く必要があった。

[English Translation]