神祇官 (Jingikan)
神祇官(じんぎかん・かみづかさ・かんづかさ)とは、日本の国家機関の一つ。
古代の律令制で設置され、明治時代初期に改めて設置された。
現在は存在しない。
概要
「神」は天津神・国津神である「天神」を、「祇」は天津神・国津神である「地祇」を表し、その名の通り祭祀を司る。
諸官の最上位に位置し、行政を司る太政官よりも上位におかれた。
四等官は、伯、副(大副・少副)、佑(大佑・少佑)、史(大史・少史)。
ただし、相当する位階は低く、後述の神祇伯の相当位階は従四位下とされる。
これは、太政官の常置の長官たる左大臣(正二位又は従二位相当)よりはるかに低く、弁官・弁官(従四位上相当)、大宰帥(従三位相当)、七省の長官たる卿(正四位下相当)より下であり、蔵人頭と同等である(官位の項参照)。
すなわち、職員令(しきいんりょう)では太政官の上に位置したが、文書行政では太政官よりも下位であった。
古代の神社の社格である「官幣社」は、祈年祭の奉幣を神祇官から直接受ける神社であることを意味する(国幣社は国司から受ける)。
律令制以前
大宝律令制定以前の史書にもその存在が現れるため、飛鳥浄御原令等によって既に設置されていたと考えられているが、原文が残っていないため、大宝律令以前の制度については詳細は定かではない。
律令制下
当初は忌部氏や大中臣氏(藤原氏とは同族)が神祇官の要職を占めていたが、のちに花山源氏白川家が代々神祇官の長である神祇伯に就任した。
神祇伯になったものは臣下でありながら王を称したので、白川伯王家などといわれる。
律令制崩壊後
明治時代
神祇官の復興
慶応4年1月17日 (旧暦)(1868年2月10日)に他の6つの事務科とともに神祇事務科が設置された。
七科の筆頭に置かれた。
同年2月3日 (旧暦)(2月25日)に七つの事務科は総裁局のもとに事務局として再編成されて、神祇事務科は神祇事務局となった。
明治神祇官
同年閏4月21日 (旧暦)(6月11日)、古代の律令制に基づく官制に倣って政体書が公布されて、太政官制がしかれた。
神祇官も正式に復興して太政官の下に置かれた。
明治2年(1869年)6月には、神祇官は太政官から独立して、行政機関の筆頭に置かれた。
明治の神祇官の職掌は古代の神祇官のそれである祭祀、祝部、神封戸などに加えて、新たに諸陵と宣教が加えられた。
諸陵は天皇陵をはじめとする陵墓を管轄する業務で、古代の官制では、継嗣、婚姻、祥瑞、喪葬、外交などを司る治部省の諸陵司が担ったものだったが、明治になり神祇官の下の諸陵寮が管轄することとなった。
従来、死者の穢れがあり神事から遠ざけるべきだとされた天皇陵の祭祀を、神事を司る中枢である神祇官が行なうようになったことの意義は大きい。
一方、もう一つの新しい職掌である宣教では、神祇官のもとに宣教使と呼ばれる役所が置かれた。
宣教はキリスト教防御と維新後の国の在り方を国民に宣布することを大きな目的としたものであり、政府の要請を受けて新たに課せられた職掌であった。
しかしながら、教導の方法や内容を巡って官員同士で深刻な意見対立があり、また神祇官の規模と能力も全国的に宣教を実施できる状態には無かった為に具体的な成果を挙げられなかった。
また、神祇官の本来的な職掌である国営の祭祀を行う為の八神殿の造営が神祇官内で提案された(それまでは神籬を立てて臨時の祭場としていた)。
中世以来本来の姿を失っていた八神殿の復興は祭政一致の具体的な実現への動きであり、滞っていた宣教の分野においても教説をただ説くだけでなく、実際に行うことが必要であるとの考えであった。
特に平田篤胤出身の官員は強くそれを主張したが、当時権勢を振るっていた津和野藩出身の福羽美静は新時代の祭政一致のモデルは天皇宮中祭祀にあるとし、八神殿の復興に対しては消極的な姿勢をとっていた。
また、当時の政府は東京奠都と大嘗祭の東京執行という大問題を抱えており、事態が流動的であったため太政官も八神殿の造営には慎重姿勢を見せた。
しかしながら、神祇官に常設の神殿が無いことは問題とされ、当面の間の祭祀を行う「仮」神殿の造営が決定され、明治2年(1869年)12月に仮神殿は完成し、中世の廃絶以来白川・吉田両家で奉斎されていた八神殿の霊代が奉献された。
この仮神殿に明治天皇の親祭を仰ぐことが計画されていたが時期悪く明治天皇は風邪を罹患しており、この親祭の計画は実現しなかった。
翌1870年1月3日には鎮祭が行われ、明治天皇は勅使として三条実美を発遣した。
この仮神殿には律令制神祇官が祀っていた八神に併せて歴代の皇霊と天神地祇が祭られた。
この際に鎮祭の詔と大教宣布の詔が発せられ、神祇官の八神殿祭祀と宣教師の宣教政策は勅命を以て行われることとなったが、神殿が「仮」のものであることはその後も変化は無く、また宣教政策に関しても打開策は出なかった。
なお、一般的には明治神祇官は平田篤胤の国学者が主体となっていたと解されているが、実際に活躍したのは神祇官が再興される前段階でのことであり、復興された神祇官は大国隆正の教えを受けた福羽美静ら大国隆正の国学者が権勢を振るっていた。
これは当時の政治的な勢力バランスも然ることながら、神祇制度の整備に当たって復古をのみ強力に主張した平田派国学者に対し、明治という新時代に適応した開明的なビジョンを持っていた津和野派国学者が受け入れられたとも考えられる。
平田派国学者で政府内で要職についていた矢野玄道・角田忠行・丸山作楽・権田直助は明治4年(1871年)に国事犯の嫌疑が掛けられ政府から追放されており、明治神祇官が平田派一辺倒であったとは考え難い側面がある。
神祇省
明治4年(1871年)7月、神祇官は神祇省に降格されて、太政官の下に置かれた。
この措置は一見、神祇行政の地位の低下にみえるが、実際はより密接な祭政一致を目指して行なわれたものである。
神祇省への降格を前にして太政大臣三条実美が神祇伯を兼任するようになったのはそのためである。
神祇省は大中少の掌典による神殿祭祀と宣教使による宣教とで明確に分掌されていた。
同年9月14日 (旧暦)(10月27日)に神祇奉安の詔が発せられ、八神殿から皇霊を宮中に奉遷することとなった。
同9月29日 (旧暦)(11月11日)には神祇官中に御巫、権御巫が設置され、翌9月30日 (旧暦)(11月12日)に皇霊が賢所に遷座された。
神祇省の廃止と教部省の設置
明治5年3月14日 (旧暦)(1872年4月21日)、神祇省は廃止された。
上記神殿造営に関して福羽美静が唱えているように、新時代の祭政一致は天皇親祭とされ、すなわち、神祇の祭祀は官に任せるのではなく、天皇自らが行なうことが理想とされた。
それを実現するために、神祇省は廃止され、その祭祀業務は宮内省明治初期(1869年-1885年)式部寮があたることとなった。
同年3月18日 (旧暦)(4月25日)に先に遷座された歴代皇霊を除く八神殿の祭神は宮中賢所に仮遷座され、同年11月27日 (旧暦)(12月27日)に神殿・皇霊殿が完成し、八神は天神地祇と併せて神殿に祭られ、歴代皇霊は賢所から皇霊殿に奉遷された。
また宣教に関しては国学、儒学を中心とした宣教は不可能と判断され、仏教勢力の地盤及び教化能力を汲み入れる為に神仏儒の合同布教体制となり、国民教化を行なう専門機関として教部省が設置された。
教部省設立後の動き
しかしながら、学校教育制度の拡充と共に教部省の持つ役割は薄れ、明治10年(1877年)1月11日に廃止、管掌していた任務の一部は内務省社寺局に受け継がれた。
しかし、のちに神祇官興復運動が盛んとなり、明治33年(1900年)に社寺局より神社局が独立した。
昭和15年(1940年)には紀元二千六百年記念行事記念に際して神社局に代わって神祇院が設置された。
しかし神祇院は行政上の目立った成果も挙げないまま、終戦を迎えた。
神祇院は昭和21年(1946年)2月2日に廃止され、全国の神社の管轄は翌日に設立された宗教法人神社本庁に引き継がれた。