観察使 (Kansatsushi (inspector))
観察使(かんさつし)は、唐の中国、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。
唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。
李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。
唐
唐玄宗 (唐)代にそれまで10あった道 (行政区画)を15に増やしてそれぞれに採訪処置使を置いた。
採訪処置使は後に名を変えて監察処置使(略して観察使)になる。
観察使は名目上は監察のための役職であったが、実質的に道内の行政権を握った。
同時期に設置された節度使は多くが観察使を兼ね、行政・軍の双方を兼ね、強大な力を持った。
→ 詳細は「藩鎮」の項を参照。
日本
日本では、平安時代最初期の797年頃、地方行政の遂行徹底を狙う桓武天皇により、地方官(国司)の行政実績を監査する勘解由使が設置された。
勘解由使は国司行政を厳正に監査し、地方行政の向上に一定の効果を上げていた。
しかし、806年(大同1)、桓武天皇が没すると、後継した平城天皇は政治の刷新を掲げ、同年6月、その一環として勘解由使を廃止し、新たに観察使を置いた。
観察使は当初、東山道を除く六道(東海道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)ごとに設置され、六道観察使とも呼ばれた。
また、観察使は議政官の一員である参議が兼任することとされていた。
観察使は、参議に比肩しうる重要な官職だった。
翌807年(大同2)、東山道および畿内にも観察使が置かれた。
併せて、参議を廃止して観察使のみとした。
観察使による地方行政の監察は、精力的に実施されていたようで、『日本後紀』には、各観察使が民衆の負担を軽減するため、様々な措置を執っていたことが記録されている。
810年(弘仁1)、前年に譲位した平城上皇と嵯峨天皇の関係が悪化していく中、同年6月、嵯峨天皇は、観察使を廃止して参議を復活する詔を発令した。
これにより観察使は4年間の歴史を終えた。