八瀬童子 (Yasedoji/Yasenodoji/Hasedoji)
八瀬童子(やせどうじ、やせのどうじ、はせどうじ)は京都洛北八瀬郷(現在の京都府京都市左京区八瀬)に住み、室町時代から天皇の輿丁として奉仕した人々のこと。
延暦寺の雑役に従事した童子村で伝教大師最澄が使役した鬼の子孫とされる。
寺役に従事する者は結髪せず、長い髪を垂らしたいわゆる大童であり、履物も草履をはいた子供のような姿であったため童子と呼ばれた。
現在、八瀬童子の伝統を守るため関係者によって八瀬童子会が組織され、資料の収集保全が進められている。
また、葵祭には輿丁の扮装で参加し、天皇の輿丁として奉仕した往時の姿をしのばせている。
来歴
弘文天皇元年(672年)の壬申の乱の際、背中に矢を受けた大海人皇子がこの地にかま風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。
この伝承にちなんで後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。
歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている。
比叡山諸寺の雑役に従事したほか座主の輿を担ぐ役割もあった。
また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。
延元元年(1336年)、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。
この功績により地租課役の永代免除の綸旨を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し天皇や太上天皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。
延暦寺との境界争い
比叡山の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められた。
永禄12年(1569年)、織田信長は八瀬郷の特権を保護する安堵状を与え、慶長8年(1603年)、江戸幕府の成立に際しても後陽成天皇が八瀬郷の特権は旧来どおりとする綸旨を下している。
延暦寺と八瀬郷は寺領と村地の境界をめぐってしばしば争ったが、公弁法親王が天台座主に就任すると、その政治力を背景に幕府に八瀬郷の入会権の廃止を認めさせた。
これに対し八瀬郷は再三にわたり復活を願い出るが認められず、宝永4年(1707年)になってようやく老中、秋元喬朝が裁定を下した。
延暦寺の寺領を他に移し旧寺領・村地を禁裏領に付替えることによって、朝廷の裁量によって八瀬郷の入会権を保護するという方法で解決した。
八瀬郷はこの恩に報いるため秋元を祭神とする秋元神社を建立し徳をたたえる祭礼を行った。
この祭礼は「赦免地踊」と呼ばれる踊りの奉納を中心とするもので、現在でも続いている(毎年10月の第2月曜日の前日にあたる日曜日)。
葱華輦の輿丁
猪瀬直樹の『天皇の影法師』で紹介されて以来、歴代天皇の棺を担ぐ者として有名になったが、実際には後醍醐天皇以降の全ての天皇の棺を担いだわけではなく、特に近世においては長く断絶した期間もあった。
大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。
明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。
この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。
平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は車輌によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。
八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から拒否され、輿丁には皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。
八瀬童子会からは数名の代表者が車両から葱華輦に棺を乗せかえる際などに顧問として関与するに止まった。
八瀬童子の登場するフィクション
『花と火の帝』 隆慶一郎 (著) 講談社文庫 上巻 ISBN 406185495X 下巻 ISBN 4061854968