大兄 (Oe (title or appellation))
大兄(おおえ)とは、6世紀前期から7世紀中期までの倭(日本)において、一部の有力な皇子が持った呼称・称号である。
大王 (ヤマト王権)(治天下大王、後の天皇)の皇位継承資格者と考えられている。
概要
大兄の意味について直接説明した同時代的史料はない。
そこで現代の歴史学者は、大兄の名を持つ皇子を比較して帰納的にその意味を探っている。
細かな点で異なる諸説があるが、多数の皇子の中で王位を継承する可能性が高い者が持つ称号とみなされている。
当時、治天下大王の地位承継は、長兄→次兄→・・・→末弟というように、兄弟間で行われ(兄弟承継)、末弟が没した後は、長兄の長男に皇位承継されることが慣例となっていた。
この長兄の長男が大兄と呼ばれていた。
ただし、当時は一夫多妻であり、大兄も複数存在した時期もあったようであり、しばしば皇位承継の紛争が起こった。
(大兄は1人に限られていたとする説もある。)
大兄略史
日本書紀によると、6世紀前期にいた継体天皇の長子の勾大兄(まがりのおおえ、安閑天皇)が大兄として初めて現れている。
安閑天皇には男子がおらず、次兄の宣化天皇が後継したが同様に男子がいなかったため、末弟の欽明天皇が代を継いだ(欽明天皇が安閑・宣化を滅ぼしたとする説、さらには欽明朝と安閑・宣化朝が並立していたとする説もある)。
その後の大兄には欽明天皇の子である箭田珠勝大兄(やたたまかつのおおえ)、欽明天皇を後継した敏達天皇の子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえ)、敏達天皇の異母弟である橘豊日大兄(たちばなのとよひのおおえ、用明天皇)、用明天皇の子聖徳太子(推古天皇の摂政)の長子である山背大兄王(やましろのおおえ)、舒明天皇の長子である古人大兄皇子(ふるひとのおおえ)がいるが、これらの大兄のうち治天下大王位に就いた例の方が少ない。
このことは、当時の皇位承継の決定方法が明確に規定されていなかったこと、たとえ大兄の地位にあっても治天下大王を承継できる訳ではなかったことを表している。
逆に推古天皇の死後には、大兄の嫡男(田村皇子・後の舒明天皇)と摂政の嫡男である大兄(山背大兄皇子)のどちらが皇位継承に相応しいかで紛争を起こしたケースも存在する。
最後の大兄と見られるのが中大兄(なかのおおえ、天智天皇)である。
天智天皇の後を継いだ大友皇子(弘文天皇)はもはや大兄と呼ばれることはなく、その後も大兄の称号は絶えている。
すなわち、皇位承継者の決定方法がこの頃に明確に定められたのではないかと考えられる。
その皇位承継法とはおそらく、兄弟間の承継を廃し、没したと同時にその長子へ承継する方式だったと推測される。
このため、天智天皇の長子である大友皇子が即位することになり、皇位承継の道を閉ざされた大海人皇子(天武天皇)が叛乱(壬申の乱)を起こした一因となったのであろう。