天下人 (Tenka-bito)
天下人(てんかびと/てんかにん)とは、天下の政権を掌握した人のことをいう。
主に戦国時代 (日本)から江戸時代初期にかけて、琉球(沖縄県)と蝦夷地(北海道)の大半を除く日本全土を自らの支配下に置き、日本全土を統一した者を指す。
起源
もともと「天下」とは、世界の全体を指す抽象概念であり、古代中国の思想概念だったものが、日本でも古代から用いられるようになった。
「天下」という言葉は、蘇我馬子が草創した飛鳥寺の塔の露盤銘で、推古天皇4年(596年)に使用されていることが確認されている。
それ以降、しきりに用いられ、天皇の支配を「治天下」と表現したりしている。
「天下人」という言葉がいつ頃出来上がって、誰が使い始めたかは定かではないが、江戸時代初期の元和 (日本)7年(1621年)より書かれた『川角太閤記』が初めてといわれており、この頃にはすでに普及・定着しつつあったことがわかる。
天下人と見られるための条件
天下を掌握する。
天下人が天下を取った人である以上、当然の条件としていえるが、天下人が取った天下の内容が時代によって一様ではなかった。
例えば、源頼朝は、自らの事業を「天下の草創」と称したが、後の豊臣秀吉や徳川家康が日本六十余州を支配したことに比べ、頼朝は比較にならないほどである。
しかし、頼朝が天下人と呼ばれるのは、御家人制と呼ばれる個々の武士たちとの主従的結合(御恩と奉公)を通じて、全国に影響力を及ぼすことができたためである。
足利尊氏についても同様のことがいえる。
織田信長の天下は、頼朝や尊氏、後継者となった秀吉のそれとは違う。
信長は「織田信長天下布武」のもと、天下統一を志していたが、本能寺の変で急死。
その段階では畿内を含む二十数か国の主に留まっていた。
しかし、信長が在世中から「天下の主」「天下様」とされていたのは、天下=日本の中心部、つまり京都を支配下に置いていたことである。
もし、信長が生き長らえていたならば、全国を統一していたに違いない。
武士として政権を立てる。
天下人と呼ばれたのは、いずれも武士である。
つまり、武力を背景として武家政権を興したものが天下人とされてきた。
朝廷の臣下として振る舞う。
天下人は、例外なく朝廷の臣下としての形を取りながら、政治の実権を握った。
彼らは天皇家(天皇・治天の君)を頭の上に戴いて事業を進めていたといえる。
武家政権が出現した頃には、天皇家は次第に権力を失いつつあり、権威だけを保有する方向に向かっていた。
それでも、天皇家は日本66か国の国主であった。
朝廷の臣下としての天下人は、征夷大将軍のような武官コースを取る場合と、関白・太政大臣といった文官コースを取る場合とがあったが、それは関係のないことであり、一定のポストに就かなければ天下人と見られないわけではない。
頼朝、尊氏、家康は征夷大将軍になっているが、秀吉は関白となる道を選んだ。
信長の場合、天正3年(1575年)、右近衛大将となり、内大臣、右大臣へと進んだが、その後は無官となっている。
朝廷から関白・太政大臣・征夷大将軍のいずれかへの推挙をしたいという要望があったくらいである(三職推任問題)。
政権が「全国性」を持っている。
天下統一とは、上述の通り、日本全国を統一して一元的に支配することである。
秀吉と家康の政権は、名実ともに全国政権であった。
頼朝の場合、領国的な支配は東国中心であったが、御家人制によって全国的に人を支配していた。
尊氏になると、南北朝の時代になっており、お互いを正当な政権であると主張していた。
北朝 (日本)を擁した足利家の武家政権は、終始、公家である南朝 (日本)政権より強力であり、日本の中心部である京都をほぼ支配していた。
信長の政権も、畿内を含む京都とそこにいる朝廷を押さえていた。
その意味においては、全国性を持っていたことになる。
天下人になるための条件
天下取りの意欲がある。
天下人になるためには、まず天下人になろうという意欲があることである。
しかし、その意欲がどのくらい強固なものであったかは、別問題である。
頼朝にしろ、尊氏にしろ、中央政権(公家政権)とは違う新しい政権を樹立しようという意欲は、その時々の事態が進行してからである。
また、天下取りという意欲を持てば誰でも天下を望める風潮が出てきたのは、戦国時代になってからのことであった。
それを目指す者の中で何人かの者だけが、ある段階で天下取りへの意欲を持つようになり、そのうちのまた何人かが成功したというのが実情であろう。
一定の軍事力・経済力を備えている。
天下人の政権は、それを樹立するに当たって妨害を排除し、ライバルを圧倒するだけの軍事力がなければ成り立たない。
政権樹立後も、抵抗しようとする者たちを押さえて、これを維持していくための武力が必要である。
しかし、その軍事力は、必ずしも自前のものとは限らないし、そうである必要もない。
軍事力は数あるいは質の問題なのである。
経済力も天下取りの重要要素である。
日本では、経済力は農業生産力、ことに米の生産力が主流である。
米は貨幣と同様に通用する便利な商品であった。
とはいえ、諸大名も将軍も米ばかりを当てにして動いていたわけではない。
平清盛は日宋貿易に力を入れていたし、足利義満も日明貿易に熱心だった。
信長が楽市・楽座のような商工業を重視していたことは有名である。
秀吉は金山・銀山を直轄化しており、豊臣氏が富強であったのはそうした背景があったからだとも言われている。
必要な家格・地位などを持っている。
天下人の政権は軍事政権であるといっても、ひたすら武力で支配したいたわけではない。
支配される側に、支配されることへの同意や関心を呼び起こすようなことも考えなければならない。
政治権力というのは、単なる実体として存在するわけではなく、それに従う者、統治される者との関係において成立するものである。
ここでいう家格や官位といったものが、支配される者を納得させ、支配される者が自ら納得するための重要な要素の1つであったといえる。
支配する側としては、そうしたものを備えることによって、支配することの正当性を獲得するような形になるのである。
頼朝の場合、清和源氏の嫡流であり、八幡太郎義家の玄孫であるという家格があった。
また、尊氏もまったく同じであった。
しかし、応仁の乱(1467年~1477年)以降、戦国時代に入ると、下剋上の風潮が高まり、「家格破壊」が実現した。
秀吉はもちろんのこと、信長、家康にしても、その家格は決して高いものではなかった。
家格破壊の結果、実力さえあれば氏素性の怪しさなどは、黙認された時代になっていた。
一定の能力を備えている。
歴史を動かすような人たちは、いずれも非凡な才能の持ち主であったかのように考えがちだが、実態は必ずしもそうではない。
天下を取るほどの人間には、人より優れたものがあったのかもしれないが、天下人以外にも同じ程度の能力を持っていた者は、いくらでもいたに違いない。
しかし、結果論的評価として、彼らを大政治家、大英雄、大革命家と持ち上げられるようになったのは否めない。
運・ツキに恵まれている。
天下人が天下人になれた過程をみると、その時々に偶然としかいいようのない出来事や事情の積み重ねが彼らを天下人に押し上げていったことは明白である。
本人たちの努力やその合目的的な判断が実を結んだことも多々あったにちがいないが、本人たちにも計算できなかったような偶発的要素も大きく作用していることもあり、運・ツキはなおさら能力以上に重要である。
天下人の歴史の終焉
慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いた。
それ以後、最後の将軍徳川慶喜まで15代、約260年間続いた。
しかし、黒船来航で攘夷・尊王思想が高まり、最終的には徳川幕府は倒壊し、700年近く続いた武家政権は幕を閉じた。
武家政治は大政奉還-王政復古-明治維新という形で終わる。
そして、日本は近代化の道をたどっていく。
それと同時に、武士階級そのものも存在理由がなくなり、士農工商(四民)の封建的身分制度が撤廃され、武士の消滅とともに、天下人の歴史も終焉した。