寺社奉行 (Jisha-bugyo)
寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権における職制の1つで、宗教行政機関。
鎌倉・室町幕府
鎌倉幕府では寺社を担当する奉行人が「寺社奉行」と呼ばれた。
その他、特定の有力寺社との折衝・取次を担当する奉行が別途設置されていた。
『吾妻鏡』によれば、建久5年(1194年)5月 (旧暦)に中原季時を「寺社の訴えを執り申す」役目としたのが後の寺社奉行にあたると考えられている。
また、同年12月 (旧暦)には大庭景能らを鶴岡八幡宮・勝長寿院以下鎌倉の幕府御願寺の奉行に任じている。
後に太田時連や二階堂貞雄が寺社奉行に任命され、一方諏訪大社や伊豆山神社、三島大社、熱田神宮など鎌倉幕府の庇護下にあった寺社には、当該寺社担当の奉行人を任命している。
この政策は建武政権や室町幕府にも継承された。
室町幕府では仏寺を担当する寺奉行と神社を担当する社家奉行が設置された。
更に禅宗と律宗(時に真言律宗)を管轄する禅律方や延暦寺を担当する山門奉行、東大寺・興福寺を担当する南都奉行など特定の宗派や寺社を担当する奉行人が任命された。
足利義満以後になると、奉行衆の中から特定寺社を担当する奉行(別奉行)が積極的に配置されるようになった。
これらの別奉行は特定有力寺社と幕府の連絡を把握する立場にあったために、寺社側から多額の金品を送られたり反対に寺社側と奉行の対立が政治問題化する場合もあった(例足利義教の山門奉行飯尾為種と延暦寺の対立)。
足利義政の時代にこうした別奉行の全盛期を迎えるが、応仁の乱以後の幕府機構の衰退とともに没落していく。
なお、六波羅探題や奥州将軍府、鎌倉府などの地方期間にも寺社奉行や個別寺社を扱う別奉行が設置されている。
江戸幕府
江戸幕府に置いては、慶長17年(1612年)に以心崇伝・板倉勝重に寺社に関する職務にあたらせたが具体的な役職は設置しなかった(なお、崇伝は僧侶、勝重は還俗者である)。
板倉勝重の没後、専任で寺社に関する職務にあたっていた。
将軍家光時代の寛永10年(1633年)、崇伝の死去によって担当者が不在となってしまった。
そのため、寛永12年(1635年)、寺社や遠国における訴訟担当の諸職として創設された。
諸職ははじめ将軍直轄であったが、老中制の確立とともに老中の所管となった。
しかしながら、将軍家綱時代の寛文2年(1662年)に将軍直属に戻る。
原則として一万石 (単位)以上の譜代大名が任命され、奏者番を兼任していた
(例外として、江戸町奉行の大岡忠相が旗本のまま大名格となり、奏者番を兼ねずに勤めたことがある)。
いわゆる「三奉行」のうちでは、勘定奉行・町奉行が老中所轄であるため、筆頭格といわれる。
定員は4名前後、自邸が役宅となった。
月番制。
勘定奉行・町奉行と共に評定所を構成し、寺社領のものの他に関八州以外の地における複数の知行地にまたがる訴訟を担当した。
主な任務は全国の社寺や僧・神職の統制である。
門前町民や寺社領民、修験者や陰陽師らの民間宗教者、さらに連歌師などの芸能民らも管轄した。
当時の庶民の戸籍は寺社が全て管理していた為、訴訟・戸籍の管理という点で、現在の法務省のような役割を果たした役職である。
補充
時代劇で町奉行同心や与力が犯罪者を追いかけ、その犯罪者が寺社に逃げ込み「寺社奉行が束ねているので手出しが出来ない」と地団駄を踏むシーンが登場する。
しかし、これは誤りである。
犯罪者が寺社に逃げ込んだ際には、町奉行所側が寺社奉行に対し一定の手続きや捜査協力の申し出をする事によって『下手人の引き渡し』や『捕縛権の執行・代行』が行われていた。
また火付盗賊改方は寺社奉行による事前了解が無くても、寺社地に立ち入っての犯罪者の捜査や捕縛をする事が認められていた。
寺社側が犯罪者と結託してかばうような行為が明白な場合、寺社奉行によって厳しく取り調べられ、僧侶・神官を捕縛する事もあった。
寺社地が治外法権になる様な事はことはあり得ない。