小姓 (Kosho)
小姓(こしょう)とは、武家の職名である。
一説では「小性」と記されることもあるといわれる。
概要
「扈従」に由来し、中世以来、武将の身辺に仕えて、諸々の雑用を果たした。
戦国時代 (日本)には、主に秘書的役割もこなし、特に主君の盾として命を捨てて守る役目が大きかったため、幅広い知識と一流の作法と武芸を身につけていなくては務まるものではなかった。
成長すると主君の側近として活躍する者も多かった。
豊臣秀吉、徳川家康は大名家の子弟を小姓という名目で事実上人質にとっていた。
江戸幕府では若年寄の支配下で、征夷大将軍の身辺の雑用を務めた。
幕府や諸藩の職制では、この秘書的役割は側用人・側衆・近習出頭役・御用取次役等が担いった。
小姓は、主君に近侍して雑務や日常生活に必要な取り次ぎをすることが主な仕事となっていくが、建て前上の役目の第一は、将軍・藩主などの主君の警護である。
小姓が主君に近侍しているため、その手先として働くのが小納戸役である。
また藩主の中には、元服したての優秀な若い藩士を小姓・側用人等に任じて、将来自分の手足として働けるような人材に育成する事を心がける藩主もいた。
例えば、永代家老の嫡子・総領として、生まれた場合は、小姓→用人職(側用人を含む)→家老職、あるいは、小姓→家老見習い→家老職と、班を進めることが多かった。
また、藩主の元服前の男子のお相手役・側衆として、上級家臣の子弟が、部屋住み身分で小姓として、召し出されることがあった。
小姓は、物理的に主君に最も近い位置で奉公し、その警護と、枢機に預かったため、小姓に任じられた者は、親族を含む他家との交際を禁止する藩もあった。
幕臣である旗本のうち、相当数の家臣団を抱える大身旗本の場合は、次男・三男などの庶子のうち、他家に養子に行きそびれた者の直系子孫は、その旗本家の家臣取り扱いとなり、中小姓(中奥小姓)となることが多かった。
ただし、諸大名においては同様の場合、給人格(給人席)となることはあっても、中小姓となることは、まず無かった。
また貧しい武家の次男・三男は、口減らしと学問習得などの理由で寺に売られるなどして、「寺小姓」として僧侶の身の回りの世話などをした。
一般的には大抵十八・十九と成人する頃には、纏まった金をもらって御家人株・諸藩の足軽株を買う者、あるいは町家に囲われるなどして(援助を受けて)寺を出された(寺小姓から解放された)者、及び妻子を持って所帯を持っても、いわば公認・法律婚によるものでなく、その子供は、武家と認められずに町民・百姓となる者などがあった。
男色の相手
小姓は、主君の男色(男性同性愛)の相手とされることがあった(一般に「小姓の仕事」として知られているこの勤めにつく者を「児小姓」とも称する。)
(しかしこの勤めは必ずしも小姓の一般的な勤めではない)。
戦国時代においては、主に合戦や長期に渡る滞陣中に性欲を発散するため、主君が小姓のうちより美貌の者を選んで、肛門性交などを始めとする様々な性行為を行われていた。
江戸時代になっても続けられていたが元禄文化終焉とともに江戸時代中期となると男色は衰退の一途を辿った。
書状が現存する人物達
武田信玄と高坂昌信(ただし該当する書状には春日(高坂)の苗字を後から付け足した痕跡がある)
伊達政宗と只野勝吉
二次史料に記述が見られる人物達
上杉景勝と清野長範
織田信長と前田利家
伊達政宗と片倉重綱など
関係が噂された人物達
徳川家光と堀田正盛ら
徳川綱吉と柳沢吉保(館林藩小姓)など
また仏僧にとって女犯が重大な戒律違反であるのに対して男色については戒律による直接規定が無かったため、寺小姓が僧侶の性的対象とされる場合が多かった。
著名な小姓経験者
※上記以外のものを挙げる。
()内は小姓時代の主君。
ただし戦国時代のものについては死後数百年経過した二次史書によるものであり、信憑性は保障できない。
堀秀政
- (織田信長)
森成利
- (織田信長)
片倉景綱
- (伊達輝宗)
直江兼続
- (上杉景勝または上杉謙信)
石田三成
- (豊臣秀吉)
井伊直政
- (徳川家康)
松平信綱
- (徳川家光)
柳生三厳
- (徳川家光)
田沼意次
- (徳川家重)
市村鉄之助
- (土方歳三)
高嶺秀夫
- (松平容保)
立見尚文
- (松平定敬)