町代 (Machidai)
町代(まちだい)とは、江戸時代の京都における町役人のこと。
元は町役人の元締役として京都市民の代表的な地位にある存在であったが、後に京都町奉行の事務業務の代行を委任される事が多くなり、町奉行の下部組織として認識されるようになった。
町代を「ちょうだい」と読ませた町役人は江戸・大坂にも存在したが、町年寄や町名主を補佐する事を職掌とした。
これに対して京都の町代は京都のうち上京に12、下京に8あった「町組」と称される組(地域)単位に1名、その下に1ないし2名の下町代が付属され、組内にある各町の町名主以下の町役人を統率した。
京都町奉行の成立に先立つ寛文8年12月5日 (旧暦)に作成された「町代役之覚」という17ヶ条の町代と町奉行間で交わされた文書によると、町奉行から出された法令・触書の伝達、町から出された様々な請願・届出の提出、京都市民を代表して江戸城の征夷大将軍への年頭拝礼、町人役(町々への賦課)の徴収、火災・闕所・見廻などの出役などがあり、訴訟事務などのために公事・訴訟が行われる日には交替で1名が奉行所内の町代部屋に出仕して事務処理の補佐を行った。
町代部屋には雑用・筆者のために数名の小番(定員6名)と筆耕が配属された。
これらの役職は有力な町名主から選ばれて代々世襲されるのが原則であり、町代の給料にあたる役銀及び町代部屋の維持費用は町々の負担とされた。
享保年間には更に職務が拡大され、寺社の管理や町役人の交替及び家屋敷の売買に関する吟味、祭事の際の警備、罪人の捕縛・吟味への参加なども担当した。
更に京都の町は江戸幕府以前からの様々な法令・慣習などが定められており、奉行所の与力・同心がこれらを把握する事が困難となっていたために、彼らからの諮問を受けた町代が先例などに基づいて回答を行う事も町代の重要な職務となるなど、奉行所の職務・運営を円滑化に必要な事務業務の代行が町代に委任されるようになって、町奉行の組織維持のための一端を担うようになっていった。
だが、本来は京都市民の代表であった町人身分の町代が次第に町奉行所において地位を固めるようになると、京都の司法・行政に大きな影響力を与えた公家や寺社などとも関係を結んでいくようになってきた。
こうした風潮に対して身分制度を維持しようとする町奉行側、支配側の代理人と化した町代への反感と嫉妬を抱く市民側の双方から、町代が圧迫を受けるようになる。
また、世襲によって町代としての能力の無い人物が町代になる例も発生した。
文化 (日本)14年(1817年)から翌年にかけて町組による町代改義と呼ばれる訴訟が起こされて町奉行側が町組側を支持したことにより、町代は大きな打撃を受けることになった。