関白 (Kampaku)
関白(かんぱく)とは、天皇の代わりに政治を行う職である。
律令制に本来規定された官ではない令外官であり、実質的に公家の最高位であった。
概略
天皇が幼少または病弱などのために大権を全面的に代行する摂政とは異なり、関白の場合は最終的な決裁者はあくまでも天皇である。
大抵の場合、摂政が引き続き関白となる例が多い。
また、慣例として摂政関白は「天皇の代理人」であるため、天皇臨席などの例外を除いては、太政官の会議には参加しない(あるいは決定には参与しない)慣例があり、太政大臣・左大臣が摂政・関白を兼任している場合にはその次席の大臣が太政官の首席の大臣(一上)として政務を執った。
ただし、関白は内覧の権限(後述)を有しており、天皇と太政官の間の政治的なやりとりを行う際には関白が事前にその内容を把握・関与することで、天皇の勅命や勅答の権限を直接侵害することなく天皇・太政官双方を統制する権限を有したのである。
これを摂関政治という。
語源
語源は天皇の言葉に対し、関(あずか)り白(もう)すことから来ている。
関白の語は、中国前漢の宣帝 (漢)が、上奏はすべて実力者霍光が「関(あずか)り白(もう)す」ようにした故事に由来する。
これは、霍光の権勢を恐れた宣帝が、政務不行届を口実に霍光により廃位されることを避けるためであったと言われる(関白の別名の一つ「博陸」は、霍光が‘博陸侯’であった事に由来している)。
なお、関白職を子弟に譲った前関白を唐名で太閤と呼ぶ。
だが、皮肉にも887年宇多天皇が橘広相に命じて書かせた藤原基経への関白任命の詔勅にあった「阿衡」という言葉の意味合いを巡って、基経が天皇と対立して政務への参加を一時拒否するという事件が起こっている(阿衡事件)。
歴史
関白職の初任者は、宇多天皇の時の藤原基経(880年)。
就任資格は藤原道長の子孫である藤原北家の嫡流たる摂関家に限られていた。
その権力の源泉は太政官などから上奏される文書を天皇に先んじて閲覧する権限にあり、これを内覧という。
従って、関白に就任しないまま内覧権限を得て事実上の関白として政権を握る例もあり、藤原道長がその典型である。
ちなみに、道長の書いた日記を今日では「御堂関白記」と呼ぶが、実際の道長は摂政には就任したものの関白には就任することはなかった。
道長は天皇と関白が対立した場合には、政治的決定への決裁権も太政官以下の諸役人を直接指揮する権限も持たない関白が政治的には無力化する可能性があることを考慮して関白に就かなかったのだといわれている。
現に道長の内覧在任中に三条天皇との確執が政治問題化している。
本来、天皇の政権を代わりに摂政関白が政治を司るのは、幼少を理由に外戚が補佐するという場合に限られる。
よって、摂関家は姫を天皇の后妃を入内させ、皇子を生ませることで成立していた。
このため、摂関家の血をひかない後三条天皇が即位すると、摂関家は次第に勢力を衰退させる。
特に白河法皇は譲位の後に、院政を開始したことで、摂関政治が中心の時代は終焉を迎えた。
鎌倉時代以降は政治の実権が朝廷から武家に移ったため、関白職の政治への影響力はますます薄れていった。
しかし、あくまで関白は最高位の公家であり、朝廷内に大きな影響力を持ち、また天皇の后妃を輩出するという意味でも関白はいずれの時代にあっても権威と尊崇を集めた。
鎌倉時代以降、藤原北家の本流は近衛家、九条家を筆頭に一条家・二条家・鷹司家の五摂家に分かれ、代々そのうちもっとも官位の高い者が摂政・関白に任ぜられることが慣例となり、明治維新まで続いた。
例外として、天正時代に豊臣秀吉が「関白相論」問題を機に近衛前久の猶子となって関白に就任し、日本で初の武家関白となる。
さらに秀吉が豊臣氏を賜ったことで、藤原氏でも五摂家でもない関白職が誕生することとなった。
その後、秀吉は羽柴氏世襲の武家関白による政権(武家関白制)の実現のために、甥にして養子であった豊臣秀次が関白職を継承した。
しかし、秀次は関白職にありながら、政権及び家督は太閤たる秀吉の掌中にあり、後に秀吉と対立して失脚することとなった。
その後も豊臣政権は続いたが、秀吉は幼い息子豊臣秀頼の成人まで関白を置かない方針であった。
だが、秀吉の死後関ヶ原の戦い以降は次第に天下の実権は徳川家に移り、関白職は再び五摂家の任ぜられる職となった。
その後豊臣家は大坂の役で滅亡したため、関白職に復帰することはなかった。
江戸時代の関白職は禁中並公家諸法度にて幕府の推薦を経ることが原則とされ、天皇第一の臣にして公家の最高位たる関白職は実質的に幕府の支配下にあったといっても過言ではない。
だが同時に、朝廷の会議は関白の主宰で行われるようになり、改元や任官などの重要事項も関白が自己が主宰した会議の決定を武家伝奏などを通じて幕府に諮るという手続が確立されたために、朝廷内において大きな権力を有するようになった。
また、公家の中で関白にのみ御所への日参が義務付けられる(逆に言えば、その義務の無い他の公家の権力への関与の度合いが関白に比べて大きく低下する)一方で、太政大臣の任官が江戸時代を通じて徳川氏征夷大将軍と摂政・関白経験者のみに限定されるなど、宮中での待遇の厚さは格別なものがあった。
更に娘を将軍の正室(御台所)として嫁がせる関白も多く、逆に幕府において一定の影響力を有した関白さえ存在した(近衛基煕など)。
明治時代以降、摂政、関白、征夷大将軍の職が廃止され、幕末と同時に関白の歴史も終焉を迎える。
その後、摂政のみは復活し、天皇の公務を代行する役目として皇太子など皇族のみが任ぜられる職として皇室典範に定められ、今日も存続している。